*** 9/28(日)主日礼拝 説教概略 ***
少し前に、親しい友人牧師がこんな事を語っていて心に留まりました。
「どんなに優れた才能(賜物)も、その人の人格が育てられなければ、 それを生かすことができない」と。本当にそうだなと思います。実際、とても才能ある人々が麻薬等に手を出し、あるいは、天才と呼ばれる人が一度の挫折から総崩れしていく。社会を見ていると「もったいないなぁ」と思うことが多いですよね。才能あるのに・・・と。
神様から与えられた素晴らしい才を、どのように活かし用いるのか、私たちは問われています。聖書において「才能(賜物)」は、他の人を助けたり、感動させたり、人の益となるため与えられていると語られています。恵みの良い管理者になりたいと思うのです。そのためにも、私たちは能力よりも、人格や信仰において成熟していく必要があるのですよね。それらを用いる私たちが成熟して、相応しい用い方ができる器になりたいと願うのです。
今日のみことばは、「成熟を目指すように」と励ましています。自分の中にある幼い部分、古い肉の思い、不要なこだわり。そうしたものに固執せず、また、「分かったつもり」にならないで、いつでも「主の新しい恵みの良い受け取り手」とならせていただきましょう。
1.聞く心が鈍くなっている問題
11節 このメルキゼデクについて、 私たちには話すことがたくさんありますが、 説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。
このメルキゼデクさんの話は、大変興味深いものですが、難易度が高いものです。ですから著者は、できれば皆に説き明かしたいけれども、今は困難だと言います。その理由は、読者であるユダヤ人クリスチャンたちが、「聞くことに対して鈍くなっているから」だと言うのです。これは、聞いて理解する力や読み取る能力の話ではありません。読解力がなくても、勉強ができなくとも、聖書のことばは聴けるのです。なぜなら、求める者には、主はお与えになるからです。聖書はすべて神の霊感によって書かれた霊的な書です。この世の知恵で理解するものではありません。祈り求める時、キリストの御霊が私たちのハートに教えてくれるのです。頭で聴くのではなく、ハートで聴くことです。
少し前ですが、3章7-8節でこのように注意がされていました。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」。4章7節でも全く同じ教えがあります。ハートで教えられる書なので、「心を頑なにしないように」とみことばは語るのです。これは、その思いがあれば誰にでもできます。神様の助けを受けて、ハートで聴くのですから!!幼い子どもでも。 神様が語られることを素直に、柔らかい心で聴くことです。これが知識や経験より100倍重要なのです。
ところが、この手紙のユダヤ人の読者たちには、それを妨げる大きな問題がありました。彼らは旧約聖書に精通しており、それを自負するプライドがありました。こだわりがありました。その知識を拠り所にし「分かったつもり」になっていたという点です。それにより、謙虚に教えられようとしないのです。ゆえに「心が鈍くなる」のです。
以前、地区修養会で「霊的成熟」というテーマで学びました。その際、講師より「成熟」の誤解があることを示されました。成熟した人とは、もう学ばなくていい完璧な人ではない。そうではなく、成熟した人とは、自分はまだまだ分かっていない、教えていただく必要のある者だと受け止めている人だと。イエス様に向かって成長を止めない人です。自分は「まだまだ未熟だ、イエス様にほど遠い」と、その心を保てる人こそ霊的な大人です。そして「保てる」ことが重要かつ難しいことです。偉くなり、経験を積むと心が固くなり、聞けなくなってしまうことは往々にしてあることです。自分の知識や経験に依存して「そんなことは、もうわかっている」となれば、成長は終わります。心が鈍くなり、聞けない人になってしまう。この手紙の読者たちは旧約の知識を拠り所とし、新しい主の教えを受け止められませんでした。考えてみたら、イエス様の働きの期間は30~33歳でしたから、余計に聞き従えなかったのでしょう。
2.成熟目指して
著者は続く12節でさらに踏み込みます。
12節 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
著者は、少し挑戦的でさえありますね。年数からすれば「教師」となっているべきなのに。まだ幼いままなのかとチャレンジしています。旧約聖書が示すキリストが現れたのに、まだ旧約から進んでいないのか。もう動物のいけにえの儀式も終わったのだ。キリストが十字架で一度死なれたのだから十分なのだ!と。しかし、受け入れられない読者の弱さがここにあるのです。固い食物をまだ食べられていない幼子です。前に進んでいないのです。
ゆえに、13節にあるように、彼らは新約で表されている「義の教え」が分かりません。これは、キリストの十字架を信じる者は誰でも、神の前に「義」とされるという「信仰義認」の教えです。恵みによって救われるという教えです。神様からの見返りなしのプレゼントを素直に信じて受け取る信仰です。
しかし、心が固い人は、プレゼントやほめ言葉、感謝の言葉さえ、「ありがとう」と素直に受け入れないものです。今夏の青年キャンプの講師のお証しは印象的でした。大ベテランの先生ですが、ご自身より年配の物をはっきりおっしゃるご婦人に、「あら、今日のネクタイ、素敵ね」とほめられたそうです。しかし、先生は「いや、これは妻が選んでくれて云々」と言っていると、「そこは素直に、ありがとうと言えばいいでしょ」とご指摘を受けたと言います。私たちにもあるでしょう。素直に「ありがとう」と受け取れない頑なさです。でも、これを青年たちの前で話してくださる80代の牧師。謙遜でなければ、出来ないなとその姿勢にも教えられました。
素直に受け入れない姿勢が私たちの成長を妨げています。まして、全能の神様が言われることに対して、「ああだ、こうだ」と言い訳をしていないでしょうか。まさに幼稚な態度なのではないかと考えさせられます。そして14節にこうあります。
14節 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
固い食べ物とは、より豊かで深い神の恵み、教えです。それは訓練された大人のためのものであると言います。訓練とは何かと言うと、「善悪を見分ける感覚の経験」を積むことです。言い換えると、普段から神のみことばに従って、物事を選び取るということです。右に行くか、左に行くか。言うべきか沈黙すべきか。日々の小さな選択、判断を聖書に従ってしていく歩みをすることです。その小さな選択の先に、大きな選択、固い食べ物、より豊かな恵みが待っているのです。
そこにすべてのクリスチャンが導かれて欲しいと、神様は願っておられるのです。6章1節のみことばを聴きましょう。
6:1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。
この勧めのことばを素直にアーメンと言って受け入れませんか。赤ちゃん、幼児のキリスト者でいるのをやめませんか。受けるだけの者から、与える者へと成長していきませんか。小さな者であるけれど、主の働きのために、あなたには出来ることが必ずあります。むしろ、あなたにしか出来ないことがあるから、主はあなたを救ってくださったのです。
私たちもここから語られ、成長させていただきたいのです。「成熟した人」とは、どういう人だったでしょうか。成熟を目指す人は、イエス・キリストのお姿へと変えられて行くことを諦めない人です。それは、自分の中にある古い考えや価値観に固執しないで、分かったつもりにならないで、柔らかな心で教えられ続けようとする姿です。
イザヤ書には、陶器師と粘土の話が出てきます。粘土は柔らかい必要があるのです。陶器師の手の中で自在に、そして何度も錬られて、「美しい良い器」へと造り変えられていくのです。もし、私たちがカチコチに固まって、謙虚に教えを受けられなくなれば、それ以上良くはなりません。砕かれるしかないのです。陶器師である神様は、陶器師のように、その御手の中で私たちを造り変え、主イエス様のご性質へと、近づけてくださいます。
ですから、その主の御手に自分をゆだねませんか。神様の願うままに、私を造り変えてくださいと祈りましょう。もちろん、私たちはイエス様と完全に同じにはなれないでしょう。しかし、主はイエス様のうちにある、愛や真実、寛容や誠実さ、柔和さと自制心などを、私たちのうちにも養い育ててくださるのです。6章3節に「神が許されるなら」とあるように、神様がしてくださるなら、私たちは変えられ、いくらでも成長していけるのです。
もう十分だと思ってはなりません。また反対に、自分は変われない、成長できないとも決めつけないでください。これからです!!
先日、40代、50代の男性で話していましたら、「たそがれ研修」「トワイライト研修」の話が出ました。終身雇用が難しい時代になり、中年男性の将来設計を考える機会を提供するものです。そこから40代、50代の男性の交わりをしようという話になり「トワイライト・フェローシップ」なんて、冗談で言っておりました。
尚、「たそがれ」を調べると、「夕ぐれ。比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰える頃」とありました。「盛りを過ぎ、勢いが衰える頃」・・・イヤですよね。でも、考えてみたら、私たちクリスチャンには、沈まぬ義の太陽イエス様がおられます。イエス様にあるなら、私たちも沈むことがなく、輝き続けることができるのです。むしろ、40代後半~50代なんて、クリスチャンとして伸び盛りです。いや、先日は90歳の先輩牧師が海外研修に行かれ、「まだまだ成長したい」とおっしゃっていて、頭が下がりました。私たちには「伸びしろ」が沢山ある。まだまだ、これから、成熟していけるのです。造り変えられやすい、成長を止めないキリスト者として歩ませていただきましょう!
引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会