東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル5章4-10節「神によって大祭司と呼ばれた方」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/09/08

ヘブル5章4-10節「神によって大祭司と呼ばれた方」

*** 9/7(日)主日礼拝 説教概略 *** 

小学校3年生の秋に、私は父の転勤で宮城から東村山に転校してきました。しかし、授業の進み具合はもちろんのこと、生活のあらゆることがあまりに違い過ぎて、一気に落ちこぼれました。「分数何それ?」「ハーモニカ?触ったこともない」といった具合です。長らく腹痛が続き、不登校の一歩手前です。



 しかし、なんとか4年生に上がった際、とても良い先生に出会い、クラスメートたちがそれぞれの分野で私の先生になる仕組みを作ってくださいました。クラスメートは、遊びたいはずの放課後を私のために当ててくれたのです。遅れている様々な学び、ハーモニカの吹き方、流行っている遊びまでも教えてくれました。学校という集団生活の場で、感動の涙を流したのは、後にも先にもこの時ぐらいかも知れません。

 出来る人が、出来ない人と同じ目線に立って寄り添い、同じ速度で歩いてくれる。自分のために、弱さを一緒に通ってくれる。どれほど慰めと励ましになることでしょうか。

 キリストは、世界で最も強く力ある方です。それなのにあらゆる弱さと苦しみを通り、あなたの歩みに合わせて隣を歩いてくださるのです。ここでは、キリストの祭司職がテーマとなっていますが、キリストは最初に「大祭司」という立場ありきではなく、私たちの大祭司となるために人となり、叫びと涙の祈りをささげて十字架の死にまで従われたのです。自分で名乗らず、御父から「あなたはとしえに大祭司」だと呼ばれるに相応しい歩みをされたのです。この方のご愛を覚え、この方に倣い、御跡について行きましょう。

1.神の任命による   

 初めに著者は、アロンとキリストの祭司職の共通点に触れています。それは、どちらも「神に召されて受ける」と語られています。つまり、神様からの任命によるのです。当時のユダヤ人の理解では、レビ族の中からのみ祭司が立てられました

 では、イエス様は何族でしょうか。ユダ族です。だとすると、レビ族ではないので「祭司の資格はないじゃないか!」という話になるのです。ですから著者はこう説明しています。

4  また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
5  同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。 

 神様はモーセとアロンの時代に律法を与え、祭司の規定も設けられました。その最初の人物として、神様はアロンを任命したのです。確かにそれ以来、アロンの家系が祭司職を担うようにされましたが、そもそもは神様の任命こそが必要な資格なのです。ですから、イエス・キリストがアロンの子孫でなかろうと、神様が任命されたのならば、まことの大祭司なのです。さらに著者は、6節でもその根拠を、詩篇110篇を引用しながら示しています。

6  別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。 

 ここで聖書中最もナゾだらけの人物メルキゼデクの名前が出て来ます。この人は創世記14章に一瞬だけ登場し、どんな血筋の人間なのか、子孫は誰なのか、系図も何もない異例の人物。それでいて「いと高き神の祭司」と言われ、しかもアブラハムより上の立場とされているナゾの人物。(それゆえ「キリストご自身なのでは?」と解釈したがる人々もあったほどです。根拠があまりないので、私はそう解釈していませんが)。

 そして、このメルキゼデクこそは、律法さえなかった時代の、聖書中で一番初めの祭司です。しかし、だからこそ、最初の祭司メルキゼデクは、血筋や家系によらず、ただ神によって任命された「いと高き神の祭司」でした。その意味で、キリストを示すひな型(モデル)であったとも言えるのです。血筋や家系によらない祭司。それは創世記序盤から、登場していたのです。神の召しが大切だと分かります。

 人は、こうして神様がお立てになった者を軽んじてはなりません。家系、社会的立場、経験、そういうことは一切関係ありません。神様がその人に「ここに立ちなさい」「これをしなさい」と呼ばれたら、それで十分です。ですから、周囲の声が何と言おうと、主がお語りになる声をしっかり聴き分けて、そこに立つことが大切です。それが神の召しです。

 「私は相応しくない、私にはできない」と思うことは、私も様々な場面であります。自分を見れば小さくあまりにも弱い者です。しかし、その時に「こんな私を、神様がみことばをもって召してくださった」という変わることのない真実に立ち返らされるのです。そして、みことばは、キリストこそが、誰が何と言おうと、神が任命された「まことの大祭司」だと宣言します。それ以上は不要です。

 皆さんも、誰が何と言おうと神様によって呼ばれて神の子とされ、ここにいる。主が呼ばれたのに、いなくていい人などいない。健康の課題ゆえに、ここに来られない方も。神様によって呼ばれこの群れに置かれ、それぞれのなすべきことを主から与えられているのです。

 

2.みこころにかなった大祭司となるために  

 さて、神によって任命されていることが大切であることを教えられました。しかし、イエス様の場合、アロンとは明確に異なっている点があります。それは何でしょうか。
 イエス様は、本来、任命さえ不要な方だということです。イエス様は神の御子、神ご自身だからです。だとすれば、ご自分で宣言すれば済む話。いや、宣言すら必要ないほどです。

 しかし、イエス様は本当の意味で私たちの痛みの理解できる、最高の大祭司となるために、あえて多くの苦しみを通り、従順を学ばれたのです。そうして完成され、父なる神からとこしえの「大祭司」と任命されるに至ったのです。イエス様ほどの方が、最初から大祭司だ!と宣言されず、弱さと痛みと苦しみを通して、私たちの大祭司に相応しい者とされていったのだと、著者は言うのです。私たち罪人こそ、この素晴らしい大祭司に相応しくない者ですのに、なんという謙遜でしょうか。7節をお読みします。

7  キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。  

 ここにあるように、まずキリストは肉体を持ってくださいました。ここには「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」とあります。イエス様は救い主ですから、自分を救えるのは言うまでもありません。しかし、あえてそれをせず、ごく普通の人間として歩まれました。現に新約聖書のどこを見ても、イエス様が自分を救うために奇跡をした記録は、一つも見当たらないのです。水をぶどう酒に変え、どんな病をも癒し、悪霊を追い出し、嵐を一瞬で静め、死んだラザロさえもよみがえらせた方です。それだけの力を持つお方なのに、ご自分のためには1ミリも奇跡をなさらなかった。なぜでしょう?奇跡ができない私たちの隣人になるためです。

 だから、私たちと同じように「叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」たのです。これだけの力があれば、叫びも涙も不要ですよね。でも、主は完全に私たちと同じ弱さを身にまといました。力があるから大祭司とされたのではないのです。逆です。力があるのに、隣人のためにそれを一切捨てることができるから真の大祭司なのです。持っている力は、使いたいものです。しかし、それを使わない柔和さ、謙遜さ、優しさが、神のみこころの大祭司なのではないでしょうか。

 そう考えると、私たちの奉仕のあり方も考えさせられます。能力があることよりも、人に愛をもって仕え歩く速度を合わせられることの方が、主に喜ばれる姿勢ではないでしょうか。自身の能力を露わにするよりも、弱い者に寄り添うことが、もっと問われているように思うのです。

 

3.従順を学ばれたイエス  

さらに8節でこう続きます。 

8  キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、 

 御子ですから、いくらでも避けられるにも関わらず、苦しみを通り従順を学ばれたのです。私たち罪人を救うためです。なんという愛、なんという謙遜でしょうか。そう思うと、私たちが様々な苦しみを通る時、それは大祭司イエス様について行く幸いな道だと思わされます。苦しみから私たちも多くを学ぶのです。「従順」とは「注意深く耳を傾ける」という意味があることばです。苦しみに遭ったからこそ、傲慢さを砕かれ、主の語りかけに深く耳を傾ける者とされるのです。それは同時に、人々のたましいの叫びにも耳を傾けられる者とされていく道であると、私は思います。それで、9-10節にこう続きます。 

9  完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
10  メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。 

 イエス様は、楽をして大祭司になりませんでした。神の栄光を脇に置いて人となり、それを通して人の弱さを知る者として整えられ、完全な者とされていきました。こうして十字架の救いをも成し遂げ、そうして父なる神によって大祭司と「呼ばれた」のです。アロンよりもずっと苛酷な試練の道を自ら通り、そうして永遠の大祭司として、父なる神から呼ばれる者となってくださったのです。

 

今日、主が私たちに語っておられます。

私たちは何をするにも、神様の許しがあって初めてできます。主が呼んで、主がしなさいと与えてくださったからです。しかし、最初からその任命に相応しい者はいないでしょう。

本来イエス様だけは、唯一、最初から相応しい方でしょう。しかし、その方でさえ、私たちのために一度弱くなり、叫びと涙の日々を忍耐深く歩まれたのです。力があるのに、あなたのためにそれを一切脇に置かれ、永遠の贖いを成し遂げられた真の大祭司です。

私たちはこの愛に応え、この方に倣っていきたい。主イエス様の後について行こうではありませんか。苦しみは誰もが避けたいのですが、むしろそこから愛と従順を学び、痛み悲しむ者の隣人となりませんか。主があなたを呼ばれたのは、あなたを強い完全な者とするためではなく、イエス様に倣う者とするためです。主があなたの永遠の大祭司として、あなたのためにとりなし、支えてくださるのですから。大丈夫です。安心して主に従っていきましょう!




引用元聖書
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