*** 10/8(水)祈祷会 説教概略 ***
ピリピ人への手紙から、主の御声に聴いてまいりたいと思います。この手紙は「喜びの手紙」、また「友情の手紙」などと言われています。ですので、どんな境遇でも喜びを失わない信仰、信仰の仲間との一致と協力について教えられることができると言えます。
1節を見ていただくと、こうあります。
1節 キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
ここからパウロとテモテが差出人だと分かります。ただし、文面はおもにパウロが書いたものだと思われます。なぜならば、3節から「私は」と一人称で語られ、全体的にそのように語られていきます。そして2章19節を見ていただくと、「私は早くテモテをあなたがたのところに送りたい」という表現が出てきます。このことから、テモテではなく、パウロがおもな著者であると分かりますよね。
執筆場所はローマの牢獄で、「獄中書簡」と呼ばれます。そのような牢獄から、ピリピにいるすべての聖徒たち、また、その教会の監督や執事たちに宛てて書かれたのです。しかし、牢獄にいたにも関わらず、その内容は喜びや感謝に満ちています。また、牢獄に捕らえられている人とは思えないほど、読者への愛と励ましにあふれています。自己憐憫や自分の境遇を嘆くような様子が見当たらないのです。
私たちはしばしば、自己憐憫に陥りやすい者です。私はこんなに大変なのです。こんなに苦労しているのですと訴え、周囲を思いやる心を忘れてしまうのは残念なことです。しかし、パウロは牢にいても、主の働きのことを思い、他の兄姉たちのことに心を向けて祈っていました。自分の傷、自分の怪我だけを見つめているととても痛いのですが、他の人の傷や怪我に目を向けると、痛みを忘れることがあるのは不思議ですよね。
3-5節を見ていただくと、感謝と友情の思いが現れているのが分かります。
3節
私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。
4節 あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
5節 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。
感謝、喜びということばが続きますね。さらに、「あなたがたのことを思うたびに」とか、「あなたがたすべてのために祈るたびに」とあります。パウロがピリピの兄弟姉妹をいつも心にかけ、思い、彼らのために喜びのうちに祈っていたことが分かります。このようにとりなしの祈りに心を注ぐ者でありたいと思わされます。
こうした祈りは、関わりや友情の中で生まれます。パウロとピリピの兄姉たちの関係、つまり、ピリピ教会が生まれた背景に触れたいと思います。
この手紙より10年ほど前のことになると思われます。パウロとシラスの二人が、ピリピで伝道をしていた時のことです。悪いことは何もしませんでしたが、因縁をつけられ、服をはぎ取られ、鞭で何度も打たれ、投獄されたのでした。パウロとシラスは激しい痛みの中、まさに牢獄の中に置かれました。しかし、彼らはそこでも主への賛美と祈りを続けていました。すると突然大地震が起こり、牢の鎖が全部解け、扉もすべて開いたのです。そこで囚人を見張っていた看守は、囚人達が全員逃げたと思い、責任を痛感して自害しようとしたのです。
ところが、パウロとシラスは逃げようともせず、看守の自害を止めたのです。彼らは逃げることができたにも関わらず、そうしませんでした。看守は、この出来事を通して、何よりもパウロとシラスのクリスチャンとしての人格に触れ、「彼らの神様は本物だ。」と思ったのでしょう。パウロとシラスの前にひざまずいて「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と尋ねたのです。ふたりは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と答え、こうして、看守とその家族は信じて救われました。この看守家族と、リディアという女性と家族が、このピリピ教会スタート時のメンバーです。
そう考えると、ひどい目にあって牢屋に入れられた出来事さえも、看守家族の救いに確かに用いられと分かります。神様は、投獄という悲惨な出来事さえ、人の救いのために用いるお方なのです。そして、自害するほど絶望したところから得た永遠のいのちでしたから、看守とその家族の救いの喜びは非常に大きかったでしょう。そして、パウロたちとの師弟関係、友情も深いものが生まれたのでしょう。このような交わりから、この手紙冒頭の祈りが生まれているのです。そして、5節に「福音を伝えることにともに携わってきた」とあります。「ともに携わる」と訳されたことばは、「コイノーニア」ということばです。交わり、協力、共有を意味することばですね。まさに、パウロは一緒に福音宣教をしてきた仲間、信仰の友、戦友だという思いを持ち、伝えています。
そして、この手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれますね。「喜び」ということばが16回ほど出て来る。キリストにある者は、たとえ牢獄にいようとも、喜びを失わずに歩めることを教えてくれています。どんな境遇かではなく、どこにいてもそこで主を見上げて歩むことが大切ですよね。私たちが「境遇の奴隷」になるなら、置かれた境遇が悪ければいつも不幸だと言い続けることになります。しかし、パウロが境遇の奴隷にならないで済んだのはどうしてでしょうか。境遇を主人とせず、別の良い主人を持っていたからです。
1節にこうありました。「キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから」と。パウロは、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と言うのです。彼の主人は境遇ではなかった。他の誰でもなく、イエス様だったのです。どこにいても!!だから、どこに置かれても、どんなに自由を奪われても、彼の心は自由でした。いつでもそこにイエス様がおられ、イエス様の愛の中で安らぎ、その守りに安心し、主と語り合うことで心燃やされたからです。その信仰は自由で、イキイキとし、主との交わりを楽しんでいました。どこにいても、主の働きの前進を喜んでいたのです。自分の逮捕さえ用いられていることを知って喜んでいたのです。
「キリスト・イエスのしもべ」ということ、これがパウロのアイデンティティだったのです。私たちもこの姿に倣いましょう。私たちの免許証とかパスポート、マイナンバーカード。これらは変わるものです。永遠ではありません。写真も変わります。年齢も変わります。住所変更も必要になることがある。他の国では通用しないこともあり、盗まれることもある。時に失効し、有効でなくなります。卒業すれば学生証は無効になり、退職すれば社員証も意味をなしません。免許もやがて返納します。
つまり、それらは変わり、失われるアイデンティティカードです。しかし、「キリスト・イエスのしもべ」というIDは決して失効しません。何があっても失われず、また誰からも奪われず、どの国に行っても、何歳になっても有効で、変わりません。だから、安心であり、だから強いのです。牢屋に入れられたら、多くの場合仕事を失います。立場を失い、名誉を失います。しかし、パウロは喜びを失わず、友情を失わず、感謝を失わず、愛を失わなかった。むしろ、彼の逮捕さえ宣教の前進に役立ちました。
「キリストのしもべ」という最高のアイデンティティは何と力強く、なんと安心で、なんと多くの恵みを私たちに与えてくれるのでしょうか。置かれた境遇のしもべになどならず、キリストのしもべであることを大切にしましょう。私の主は永遠にイエス様です。
引用元聖書
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