東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書7章1-15節「神のいない神の宮」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2025/10/07

エレミヤ書7章1-15節「神のいない神の宮」

*** 10/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

 私たちは「キリスト教会」に集っています。ただ、そう名乗る以上、教会にはいつでも、キリストがおられるということが必要不可欠ですよね。キリスト教会なのですから。ところが、教会も世俗化することや、イエス様の姿が見えない場所になることがあり得るのです。建物や組織は立派でも、中身がない。厚い信仰も祈りも愛もない。そうなることはあり得ますよね。だから私たちは、主の御声に聞き続け、11回の礼拝や日々の信仰生活の中身を大事にする必要があります。



 それは今日のエレミヤ書で語られている課題でした。人々は立派な神殿を誇っていました。しかしながら、当時の神の民は、神殿そのものを神のようにし、神殿の主である神様を見ていなかったのです。

主の宮で主への祈りがささげられません。主との交わりがありません。主のみことばが軽んじられていました。それゆえ、神の栄光も祝福も去ってしまうのです。新約聖書でクリスチャン自身が「神の宮」だとあります。ですから、神様がいつも留守であるような神の宮ではなく、いつでもそこにイエス様が見えるような輝く宮として歩みたいのです。みことばに教えられます。

 

1.偽りの信仰  

 1-2節で、主はエレミヤに命じました。主の宮の門に立ち、礼拝に来るすべての人々に叫べと。どんな内容でしょうか。

3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。 

 「あなたがたの生き方と行いを改めよというメッセージです。そうすれば、いつまでも主はそこに住まわせて下さると言います。神様はなぜ改めよと言われたのでしょう。それは、当時のユダヤ人が神のことばを無視し続けていたからです。その代わりに、「神の宮があるから大丈夫だ」という、偽預言者やいい加減な祭司のことばを信じていたのです。それで神様は言われたのです。

4節 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。 

 ここは、原語のヘブル語では、ただ「主の宮」ということばを3回唱えているだけです。まるで「おまじない」、「呪文」のように。これさえ唱えておけば、何があっても守られる!主の宮だけは、敵から攻撃され破壊されることはあり得ない!!という迷信を持っていたのです。まるで、ご利益宗教の「お守り」ですよね。皆さん、どう思いますか。皆さん、ピンチの時には「サンライズチャペル」と3回唱えたら安全だ!そんなことを信じられますか?

 建物が神様じゃないですよね。お守りじゃないですよね。ですから「主の宮」と何度繰り返そうと、何の良いものも私たちに与えられません。むしろ、この時代のユダヤ人たちは、こうして神様から遠ざかる一方でした

ですから、5-7節にはこうあります。

5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。 

 神様のご命令はシンプルです。神の教え、聖書に従って生き方と行いを改めなさいと。5-6節あるような神様が悲しまれる様々な悪い行為を改めることです。外国からの寄留者、家族を失った孤児、やもめ、彼らを虐げないこと。正しい者が罰を受けるような不正、トカゲの尻尾切りをやめよ。何よりも、偶像礼拝に走って、邪悪な行為、非道徳なことをしてはならないと。ところが、様々な言い訳をして、自分たちの過ちを認めない問題がありました。裏では罪深い歩みを重ねながら、涼しい顔で礼拝しに来ていたのです。9-10節です。

9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。 

 十戒を平然と破るような生活を続けながら、主の宮に来て「私たちは救われている」と言っていたのです。サンデー・クリスチャン」という言葉があります。月~土曜は、この世にどっぷり浸かって、もはやクリスチャンではない生活。そして、日曜日になると急にクリスチャンの服を着て、クリスチャンの仮面をつけて礼拝する。日曜だけのクリスチャンです。それは10節の姿に似ていないでしょうか。神様が忌み嫌うべきことを日々していながら、日曜の教会の時だけ「私は救われている」という姿。家ではワガママし放題、愛なき態度。学校や仕事に行けば、この世の価値観にガッツリ合わせ、みことばに合わせない。主とともに歩んでいるのだろうかと問われます。私もこの点で少しも誇れないものです。家族に対して主の愛で愛しているだろうか。出先で、お店で、電車で、主の証し人として立っているだろうか。この世と調子を合わせていないかと・・・

 残念ながら、この民は神の宮の中でさえ、自分たちの欲を満たすことに必死でした。11節にこうあります。

11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。 

 主の目に「強盗の巣」になっていたのです。9節に姦淫やバアル礼拝がありましたが、神殿で売春が行われ、暴利を貪る両替商や動物のいけにえを高額で売る者もいました。これでは、きよさが一切感じられず、この世と一緒です。人々がこの世から離れて祈ることもできない。まさに「強盗の巣」。それで福音書では、イエス様がこうした宮の状態に怒られ、エレミヤ書を引用してお叱りになっていますよね。

 

2,主がそこに住みたいと思われる宮

 神様はご自分の聖なる宮が、こんなにも酷い場所になり、ご自身もご自身の教えも無視される場になっていることを悲しまれました。神不在の宮になっていたのです。それで12節でこのように警告されました。 

12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。 

 シロで何が起こったかを思い出しなさいと言うのです。第一サムエル記の4章の出来事でした。この時、神の民はペリシテ人に敗れました。そこで、彼らは考えたのです。「シロにある主の契約の箱をここに持って来よう!それがなかったから負けたのだ!」と。今日の記事と似ています。神の宮があれば、神の箱があれば負けない、大丈夫だという考え方です。まるで偶像礼拝、ご利益主義。しかし、敗北の理由は神の箱があるかどうかなどではないのです。神様への不信仰、不従順、悔い改めを一切しない姿勢です。祭司までも堕落していました。

 結果、神の契約の箱は、ペリシテ人に奪われました。罪深かった二人の祭司は死に、その父エリも息絶えましたこれは神様ご自身がなさったことでした。神様は、ご自身の臨在を示す契約の箱が、ペリシテ人の手に渡るように、あえてされたのです。主を無視した歩みをしたゆえに、主自らがそこを離れ、主の栄光がイスラエルから去るようにされたのです。

 衝撃ですよね。まさに、主がおられない場となった。エルサレムだから主がおられるのではないのです。神殿だから、教会だから、主がおられるのではないのです。神様は場所に場所に縛られる方ではありません。主は、その御名をいつでも掲げる交わりに臨まれるのです。それがたとえ、2人でも3人であっても。数が多い少ないではない。ただ主をまっすぐに求める者たちのところに、主はおられ、主のもとに住まわせてくださるのです。主を恐れる者に主の目は注がれるのです。主を呼び求める者に、主は答えてくださるのです。

 ですから、よく、どこへ行くべきと将来の道を悩みますが・・・大事なことは、どこに行くかではない。どこに住むかでもない。置かれた場所がどこであろうと、主とともに生きることです。実にそこが主の宮ではないでしょうか?何もない空き地であろうと、そこで主への心からの祈りがささげられ、そこで主を信じる者たちが集まって何かを始めるなら、主は喜んでその中に身を置かれ、祝福してくださるのです。

 第一コリント3:16にはこのようにあります。一緒に開きましょう。 
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。 

キリストによって救われ、聖霊を受けたすべての人は「神の宮」です。だから、自分を汚す、滅ぼすようなことをしてはならない。だから、体も心も大事にするのです。主のみこころに生きるなら、私たち自身こそ、主が住みたいと願ってくださる神の宮なのです。 今日、主が語っておられます。「あなたがたは、わたしが住まないような宮になってはならない」と。主が生きていないような教会、イエス様が見えない交わり、主の愛も栄光も現れない一人一人になってはならない。主が住まわれる宮となりましょう!


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *