東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ1章9-11節「愛を育てる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/10/23

ピリピ1章9-11節「愛を育てる」

 *** 10/22(水)祈祷会 説教概略 ***

 今日のところでは、パウロの「とりなしの祈り」が語られています。パウロがピリピのクリスチャンのために、何をどのように祈っているのか。それを具体的に伝えることによって、それ自体がメッセージにもなっています。そこで何が大切にされているのかが見えて参ります。


 それはピリピの兄姉たちの愛が成長し豊かにされることでした。その結果、彼らが義の実に満たされ、神の栄光が現わされることです。私たちの愛も育てられて成長し、豊かなものとなり、神の栄光が現わされるようにと願います。愛を育てることについて、みことばから教えられましょう。

 9-10節前半までをお読みします。
9私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、10あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。 

 ここでパウロが祈っているのは、ピリピの兄姉たちの愛が育てられて成長し、豊かになることだと分かります。具体的には、知識とあらゆる識別力によって愛が豊かになることです。つまり「愛」が豊かになるためには、真の知識やあらゆる識別力が伴う必要があるということでもあります。「愛」と知識や識別力にどんな関係があるのでしょうか? 

 まず、ここで使われている「愛」ということばは、有名な「アガペー」ということばです。神の犠牲的な無償の愛を示す時に使われる「アガペー」。ところが、この「アガペー」の愛も、間違った用い方をしてしまう場面がありました。

第二テモテ4:10では、デマスという人物についてこうあります。

4:10 デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。 

 ここでは、デマスが「今の世を愛し」と語られています。実は、この愛に「アガペー」の動詞形が使われています。デマスはなんと「アガペー」の愛で熱心に「今の世」を愛してしまい、パウロとともにする宣教の働きから離れて行ったと言うのです。神様ではなく、罪にまみれたこの世を献身的に、犠牲的に愛したのです

 このことからも、アガペーの愛が正しい方向に向かって用いられる必要があると言えるのではないでしょうか。そのために、十分な知識や識別力が求められているのです。非常に深い無償の愛だとしても、偶像を愛してしまっては意味がないわけです。また、寛容なだけの愛では人を育てられません。

 例えば、ある人を愛するゆえに、聖書を丁寧に教えて差し上げたいと思う。しかし、聖書の知識がなければ何も教えられません。正しく教えられません。せっかくの愛が生きないのではないでしょうか。

 ですから、聖書において「愛(あるいは「恵み」)」ということばは「真実(真理、まこと)」ということばとペアで登場することが多くあるのです。愛だけでなく、真理やまことだけでなく、両者がともにあることが大切です。互いを補完し合うバランスを聖書は教えているからです。

 ヨハネの福音書114節では、キリストが恵みとまことに満ちておられたと語られ、神はその両者を大切な性質として、ともに持っておられることが証しされています。愛なき真理の追究は人を傷つけさえします。真実に根ざさない愛は愚かです。ですからこの9節で、「知識とあらゆる識別力」を伴った愛になるよう祈られているのです。真実や真理を識別して、正しい良い方向に愛が育ち用いられるためです。

 そして、この「知識」とは神とそのお心の知識です。神を知ることこそ真の知識。「識別力」とは、口語訳聖書では「するどい感覚」と訳されていましたが、鋭い感覚で真理を見抜く力です。あらゆることについて善悪、真実は何かを見極める力です。これなしでは、盲目的に愛することにならないでしょうか。「愛」が歪んでしまう恐れがあるのです。

 聖書は、愛さえあれば愚かでいいとは教えていないのです。知恵と知識を得よ、悟りを得よと教えています。罪や悪は愛すべき対象ではないです。そもそも神様の「愛(アガペー)」が、豊かで素晴らしいのは、神様ご自身の中にある「真理」によって、全く歪むことなく正しく用いられているからでしょう。「愛」に真の知識とあらゆる識別力とがぴったりと寄り添っていくとき、その「愛」は本当に豊かにされます。人を助け、人を育てるのです。

 ですから、パウロは110節でこのように祈りの内容を語ります。「あなたがたが、大切なことを見分けることができますように」知識と識別力がないと、大切なものも分らなくなりますよね。偽りのものに左右されない正しい価値観を持って、愛に生きることができるようになることが、神のみこころなのです。それによって神の義を現わし、神の栄光を現わすことができるのです。

私たちはどうでしょうか。私たちの愛は豊かでしょうか。神様のみこころに沿って健全に育てられているでしょうか。自分好みの愛ではなく、しっかりと真実を見抜く愛。間違っているものには、「それは違うよ、悔い改めましょう」と言える愛。良いものには、「それは本当に良い!応援していますよ!」と言える愛。大切なものを見極めて、それを人々に伝えていく愛。この愛を育てていきましょう。

 

この愛が育って行くとどうなるのでしょうか。10節後半~11節 

こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。 

 10節の「キリストの日」とは、イエス・キリストが再びこの地上に来られる再臨の時です。キリストの再臨の後、キリストと神の民はあらゆる悪の勢力に勝利し、神様の前に立たされます。もちろん、キリストを信じる者は罪赦されていますから、滅ぼされることはありません。しかし、それぞれの行いに応じて、相応しい報いを受けると聖書は言います。このような審判の時に、純真で非難されるところのない者となるとパウロは伝えているのです。私たちの愛をみこころに沿って育てて行くならば、純真な愛の歩みとなり、非難されるところがなくなっていくのです。パウロは、ピリピの兄姉のために、このように祈っているのです。こうして愛が育てられていけば、11節最後にあるように、神の栄光と誉れが現わされていくことになります。これこそ私たちの人生の究極のゴールでしょう。

 今日も主は親しく愛をもってお語りになっています。神様の愛は寛容なだけではありません。無知な愛ではありません。正しく、真理に根ざした愛。私たちを養い育て、幸いへ導く愛です。

 私たちはこの神の愛を受けました。今も受け続けています。愛を学んでいる最中です。ですから、その自覚をもって、本物の愛を育てていただきましょう。無知な愛ではない。神を知る知識を持ち、良い悪いをしっかり見分けて用いられる愛。真理に根ざした豊かな愛です。大切なことをきちんとわかる愛です。これらの愛が互いの間で育まれていき、神の栄光が現わされるように、互いに祈り合いましょう。


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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