*** 11/5(水)祈祷会 説教概略 ***
先週は、不純な動機であろうがなんだろうが、イエス・キリストの福音が伝えられていることを、パウロが大きな心で喜んでいるということを学びました。私たちに対抗意識を持つ人が、私たちの周囲にもいるかも知れません。しかし、そこに心やエネルギーをとられること自体がもったいないことです。それらさえも神様の大きな愛の働きの中に呑み込んで、大切なことを失わないようにしたいのです。
そして19節をご覧下さい。その喜びの根拠が書かれているのです。
19節 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
「このことが結局は私の救いとなる」と言います。では「このこと」とは何でしょうか。パウロを苦しめようとする党派心などの不純な動機の人々も含めて、それでもキリストの福音が伝えられ、人々が救われていることです。そして、それがパウロの救いになると語られています。どういうことでしょうか。
パウロは、様々な不純な動機で伝道していることをさばきませんでした。彼らを批判して攻撃しようとはしませんでした。対抗心に、対抗心で応じようとしませんでした。そんなことは何でもない。どうってことはない。むしろ宣教してくれているのだから喜ぼうと考えた。そして、それゆえに、救われる人々も起こったのでしょう。
つまり、パウロが彼らの働きを止めなかったゆえに、宣教は進んだのです。その事実は、神様の前に立った時に何も責められることなく、胸を張れることではないでしょうか。何より、人の救いこそパウロの切なる願いでした。それが主によってかなえられているのです。パウロは深い慰めを得たでしょう。そして、人の救いに関しては、ピリピの兄姉たちも同じ思いで祈っていたはずです。パウロはその点を19節で指摘して、ピリピの兄姉たちの心が大事なこの点に注がれるよう導いています。もちろん、御霊の支えを受けながらですね。
こうして、神のみこころと、パウロと、ピリピの兄姉が一致して願っていることが成就している。だからパウロは喜び、励まされ、救いの恵みを今味わっているのです。ブレていませんよね。揺るぎない土台です。パウロの願いは20節で、より明確に語られています。
20節 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
その生涯を通して、いつでもキリストがあがめられることでした。私たちにとって、自分の本当の願いが応えられることは大いなる救いですよね。慰めであり、喜びですよね。パウロは19節では「切に期待する」、「望んでいる」という二つのことばを同時に用いて、より強い意味を持たせています。彼はこれをすごく望んだのです。
20節ではこう語られています。「どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り」と。彼はどんなときにも、キリストを恥じとすることはなかったのです。キリストには一点の汚れも間違いもなく、恥ずかしい点も全くありません。私たちは、イエス様について、どんな時でも恥じることなく大胆に語るものでありたいと思います。
そしてパウロはこの20節から21節にかけて、繰り返し「生と死」に言及しています。パウロには「もしかしたら自分は、死が近いかも知れない」という思いがあったのかも知れません。それゆえの言及かも知れません。ただし、パウロには、生きるにしても、死ぬにしても目的がはっきりとしていたのです。それは、彼自身を通してイエス・キリストの素晴らしさが証しされるということでした。21節にはこうあります。
21節 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
非常に重いことばです。パウロにとっては、生きることはキリストである。何の罪もない方なのに、自分の身代わりに喜んで死んでくださったイエス様。この方によって生かされ、この方のために生きていく。そう考えていたのでしょう。それゆえに、死ぬことさえも益だと考えられる。パウロは、生きるも死ぬも、とにかくこのキリストの素晴らしさを人々に伝えたい。そういう強い願いと確信に満ちていたということです。
逆に言えば、このイエス・キリストの福音はそれほどに素晴らしいということです。私たちの人生において、自分のいのちさえ惜しくないと思える大切なもの、大切なことに出会えることは、とても「幸せな事」ではないでしょうか。何のために学び、何のために働き、何のために毎日を過ごすのか。わからないでモヤモヤしている人は少なくないのですから。
ジム・エリオットを含む5人のエクアドルへの宣教師の話は有名です。彼らは命がけでアマゾンの奥地にある原住民アウカ族の地に宣教に入りました。非常に危険が伴いました。彼の現地滞在時の日記には、ある祈りが記録されていました。「神よ、私が死ぬ日をあなたが定めておられるなら、どうかその日まで私を生かして、あなたの栄光をこの地に表す者としてくださいますように。生きるも死ぬも、あなたのもの」 アウカ族と接触した最初は、笑顔で良い関係になりそうでした。ところが、誤解からのようですが・・・この5名は槍で串刺しにされて亡くなったのです。ジムはまだ20代後半でした。彼らは外部の人々とほとんど接触を持たなかったため、ちょっとしたことで、外部からの宣教師たちを侵略者、脅威だと感じてしまったのです。彼らの死後、ジム・エリオットの妻エリザベス・エリオットさんと仲間たちは、信じがたいことに、このアウカ族への宣教を決意しました。
彼女はこう考えました。「彼らは夫を殺した。けれども、キリストは彼らを愛しておられる。その愛を伝えるために、私は彼らのもとへ行く」と。5人の宣教師の意志をついでこの民族のもとに宣教に行き、ここに福音が広がっていくのです。アウカ族は次々と救われていきました。彼女は言います。「神が導く道が、必ずしも安全であるとは限らない。しかし、その道が最も良い道であることを、私は知っている」と。人の目に安全とは限らないが、最善である。それが神の道。しかし、それは霊的な視点では、天国へと確実につながっている最も安全な道でしょう。現在、このアウカ族からは牧師や宣教師になった人も出ており、福音が広がっているのです。彼らのために命をかけた宣教師たちの働きは、無駄にはなりませんでした。エリザベスさんの講演は私も聞いたことがありますが、彼女が繰り返し語ることばは、“Suffering is never for nothing.”「苦しみは、決して無駄ではない」でした。パウロの苦しみも決して無駄ではありません。これらの宣教師たちは例外なくパウロの姿から教えられたはずです。現代を生きる私たちにも、彼が苦しめられてなお、喜びに満ちていた姿は、本当に大きな証しとなっているからです。どんなこの世の苦しみも、私たちからキリストにある喜びを奪うことは出来ないのです。
私たちにも、伝えずにはいられない福音が与えられています。パウロや他の弟子たちがいのちをかけて伝えた福音です。私たちもこの福音のために生きる者となりたいと願います。むなしく過ぎ去るこの世の栄華のためではなく、人にいのちをもたらす福音、永遠に残る福音のために歩みたいのです。生きることはキリストです。キリストにあるならば、苦しみや死さえも益であると言い切れるのです。
引用元聖書
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