*** 11/2(日)主日礼拝 説教概略 ***
多くの人は、笑顔に満ちた幸せな人生を送りたいという「希望」を持つでしょう。しかし、この希望を持ってさえいれば、望んだような人生になるのでしょうか。その保証があるでしょうか。残念ながら人にはその保証はできません。希望自体がどんなに魅力的で良いものでも、そこにたどり着くための道を間違えれば、そのゴールには到達できないのです。根拠なき希望だけでは、人は幸せにはなれないのではないでしょうか。
ところが、今日のタイトルは何でしょうか。「安全で確かな希望」です。安全で確かな希望があるのだと、神のことば、聖書は語ります。希望が単なる願いで終わらないのです。現実にその通りになる希望です。それは、神に保証された希望のことです。世界の造り主、全知全能なる神様が「わたしが約束する。わたしが誓う」と保証し、その道を与えて下さいました。そういう希望です。それを信じるならば、その希望は失望に終わることがありません。確実に成就するものとして、安心して受け取れるのです!ですから私たちは、人間が考えるむなしく儚い希望を抱く者ではなく、神様が約束くださった希望によって、励まされながら、イキイキと信仰の生涯を楽しんでいこうではありませんか。
1.神の約束と誓い
みことばは、「神の約束と誓い」について教えています。13-15節です。
13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
14 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
これは創世記22章の出来事でした。アブラハムが100歳にして与えられたわが子イサクを、主のご命令に従って献げようとしたすぐ後のことです。その時確かに、神様は「わたしは自分にかけて誓う」と言われました。「あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星、海辺の砂のように増やす」と宣言されました。アブラハムは、この神様による約束と誓いを聞いて、非常に励まされたことでしょう。そして彼は確かにその通りに祝福されたのです。現代においてさえ、キリストを信じるすべての者が、世界中でアブラハムの霊的な子孫として加えられ続けています。
では、誓いにどんな意味があるのでしょうか。子どもの頃、「指切りげんまん」という一種の誓いをしたものです。「嘘ついたら、針千本飲ます」と言って誓うのですから、考えたら恐ろしい話です。私たちの教会では最近結婚式や婚約式が続きました。神様の前に誓う姿を私たちも目撃しています。なぜ、誓うのでしょうか。それは私たちが弱いからです。嘘をつく罪人だからです。神の前に誓うことでなんとか約束が果たされるためです。それでも果たし切れない私たち。それに比べて神様はどうでしょう。「針千本」とかいりますか。不要ですよね。真実な絶対者です。ウソをつかないお方です。だから「誓い」は不要です。では不要なのに、神様が人の救いのことについて、ご自分に誓うとまで言って下さったのはなぜでしょうか。何のためでしょうか。
2.神による誓いの目的
(1)第一に、神の救いの計画をはっきり示し、人の無駄な論争を終わせるためです。
16-17節
16節 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
17節 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
神様は誓いのことばを人に示すことによって、「ご自分の計画が変わらないことを、さらにはっきり示そうと」なさったのです。これにより、単なる希望ではなくなりました。ここにあるように神様が保証なさったのです。信じる者は確実に受けることが保証され、人間による議論の余地をなくしたのです。約束の相続者たちとは、アブラハムと同様に神を信じる者です。キリスト者です。私たちは終わりの時に御国を確かに相続し、多くの恵みを相続できるという保証を受けているのです。
(2)第二に、私たち人間への励ましのために主は誓われたのです。神様の優しさです。18節にこうあります。
18節 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。 ここには「逃れて来た私たち」とあります。
何から逃れてきたのでしょう。それは、罪と罪に対するさばきからです。神のもとに逃れて来たのです。神様は自分の罪を悔いて、ご自分のもとに身を避ける者を確かに救ってくださいます。安心させてくださるのです。神のもとに身を避け、逃れてきた者は平安のうちに歩めます。キリスト者が力強く歩めるのは、私たちの前に置かれた希望が「確か」だからです!確実に成就するからです!
先程の15節でもアブラハムが「忍耐の末に」約束のものを得たとありました。忍耐するためには、確かな希望が必要です。希望なしに、忍耐だけすることは人には不可能でしょう。ディートリヒ・ボンヘッファというドイツの牧師、神学者は有名です。彼はナチス政権に抵抗したゆえ、秘密警察に逮捕され投獄されました。ドイツの敗戦が濃厚になり、終戦が近づいた時、こうした人々は収容所で次々と処刑れました。彼もその一人です。ヒトラーが自害するわずか3週間前に処刑されました。愛する婚約者のもとに帰ることができないままに。
しかし、彼は死に至るまで、平安でした。確かな御国の希望を信じていたので、忍耐することができ、心穏やかに死を受け入れました。その最後の彼のことばは、「この死は終わりではない。私にとってはいのちの始まりだ」でした。アブラハムも、死に至るまで信仰者として忍耐できたのも、神様のこの約束と、神の誓いによって支えられたからです。実際彼は、キリストを見ていませんが、必ず来られる救い主の到来までも信じたのです。忍耐すべき状況が過酷であっても、その先に待っている確かな希望があると、人は強くされるのです。
3.安全で確かな希望
それで、ここでは興味深い例えを用いて、さらに信じる者を励ましています。19-20節です。
19節 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
20節 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。
この「希望」とは、単なる願望、望みといった感情的なものではありません。この希望が何の上にある希望なのか、何に固定されている希望なのかが重要です。この世では、信じる信仰が大事だと言いますが、私たちは違いますよね。例えば、皆さんが座っているその椅子。ネジが何本も取れており、見た目もボロボロで、老朽化してガタガタ揺れるものだとしたらどうでしょう。強い信仰さえあればそういう椅子に100%体重をかけて大丈夫でしょうか。大ケガをするかも知れませんね。その椅子はどんなに信じようとも壊れる椅子です。
ですから、信頼できる対象かどうかが大事です。信じる対象、信じる相手こそが最重要なのです。私たちは、完全に信頼できる真実な主を信じています。この方が示す将来だからこそ、そこに確かな希望を持てるのです。そして、この希望は、「安全で確かな、たましいの錨のようなもの」に例えられています。船が流されないように固定するために「錨」が使われますね。錨が信頼できる地盤にしっかり食い込み固定されるほどに、安定し流されなくなります。それは「神のみことばの約束」という揺るがぬ地盤です。私たちは、キリストにある希望と神のみことばの約束にしっかりと錨を降ろす時、波風に流されず、最後まで、希望の信仰を保って走り続けることができるのです。
さらにここでは、その錨が「幕の内側にまで入って行くもの」であると語られています。神のみことばに固定されているならば、それは神の聖所に固定されているのと同じです。そこから外れることなく、神のおられる天の御座までしっかりと導かれていくのです。迫害や妨げがあっても、教会という御国への船がこの錨のゆえに安全に神のみもとまで到達するのです。ただの願望や期待ではありません。神の約束にこの錨が固定されているという真実です。
これに加えて20節では、キリストが先駆けとしてそこに入られたと伝えています。私たちの信仰の長兄となってくださったイエス様が、既に入られた以上、私たちはそこに続きます。大祭司としてもその道を開いていてくださるのです。
何という励ましでしょうか。私たちがどんなに罪を犯し、1万回神様を悲しませても、この錨が外れることはないのです!時に神様に背くような歩みをしてさえ、信じる者を神様は決してお見捨てにならないのです。この神の約束と誓いに根ざした希望なので、この書の最終章13章5節のことばが根拠のあることばになるのです。
13章5節 主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
続く6節では、この5節を土台にしてこう言います。
6節 ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」
神様のお約束と、真実なご自分にかけて誓われた救いです。神様が圧倒的な保証をくださったのです。だから、私たちはこう言い切れるのです。キリストにある私たちには、人もこの世も何もできないのです。学校のあの人も、近所のあの人も、職場のあの人も。あなたに手出しできない。あなたは主のもの。主が助け主。私たちは決して見捨てられない。恐れる必要がないのです!これを知る時に、私たちは本当に力強い励ましを受けるのではないでしょうか。クリスチャンがいつでも平安をもって歩めるのは、信仰が強いからではない。神の救いの約束が圧倒的に強いからです。確実で決して揺るがされることがないからです。
今日も主はあなたに語っておられます。「わたしが与える救いに関する希望は、すべて必ず成就する。わたしが約束し、わたしが誓った!キリストを信じる者に確かに与える救いである。恐れなくてよい。誰もあなたから、この救いを奪うことはできない。」
引用元聖書
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