*** 11/9(日)主日礼拝 説教概略 ***
ある教会のビジョンは「ひとりぼっちの人がいない教会を目指す」というものだと聞いたことがあります。シンプルですが決して簡単ではありませんよね。孤独を覚える人は必ず起こりえます。しかし、「人がひとりでいるのは良くない」と言われた主です。神様がひとりぼっちになることを望んでいるはずがありません。
主は様々な個所で言われます。
「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない」(出エジ22:21)、
「やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない」(出エジ22:22)、
「老人を敬いなさい」(レビ19:32)と。
これらを神様が命じるのは、弱い立場になりやすい人々を、実際に退け、無関心になってしまうことがあったからです。さらにイエス様も言われましたね。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません」(マル10:14)と。弱い立場の者たちに優しくすることが教えられています。
ですから、私たちも神のみこころを大切にして、ひとりぼっちで孤独になる人がないように、「他人事」にせず、大事な神の家族であるという意識をお互いに持って歩んでいきましょう。みことばから教えられます。
1.共同体の祈りから始まる
本日開いているネヘミヤ記は、紀元前450年頃の話です。神の民イスラエルは、国を失ってペルシアの支配に置かれていました。辛い日々です。少しずつエルサレムへの帰還が始まっていたものの、未だに城壁は崩れ、門も焼かれたままのひどい惨状でした。その状況を知ったネヘミヤが、胸を痛め、涙を流しながら祈るところから、復興がなされていくのです。
初めに、ネヘミヤ記の1章をお開きいただけるでしょうか。6節です。ネヘミヤの神への祈りがあります。
6節 どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
ネヘミヤは仲間たちのために昼も夜も、一日中祈りました。この節の後半に注目しましょう。ネヘミヤは「私たち」があなたに対して犯した罪を告白しています。「私たち」と彼は自分を含めて告白しました。また、最後の一文でも「私も私の父の家も罪を犯しました」と祈り、やはり自分をまず含めています。これらは大きな驚きです。普通に考えると、この祈りはおかしい!とさえ思えます。
なぜならば、ネヘミヤは、捕囚後に生まれた人だからです(エルサレム陥落から考えても既に140年経過している)。ですから、彼が生まれる前に、先祖たちが犯した罪のせいで、バビロンやペルシアの支配下に置かれたのです。神のさばきとして、国を滅ぼされ、外国に連れて来られたのです。
だから、場合によっては、ネヘミヤに被害者意識が生まれてもおかしくありません。ネヘミヤが生まれてもいなかった時代に、先祖たちが犯し続けた罪のせいで、外国の捕虜となって酷い目にあっているのですから。むしろ文句を言いたいはず。
しかし、彼は他人事にはしなかった。「彼らのせいで」と言いませんでした。「私たちが罪を犯した」と祈ったのです。イスラエルの城壁再建、いや、愛と真実な信仰の再建は、ネヘミヤのこの祈りから始まったのです。
そして、わずか52日間で城壁は再建されました。この神の家族のための愛の祈りを、主が喜ばれたのではないでしょうか。つい、人をさばいてばかりの私たちです。しかし、自分も同じ罪人なのだという謙虚な姿勢、隣人への愛の姿勢を主は喜ばれるのです。私たちも人々の罪を見る時に「私も同じ罪人ではないか」と受け止め、自分のことのように祈りませんか。主は、必ずそこから新しい恵みの道を始めてくださいます。
2.世代も立場も超えた「神の家族」の歌声
さて、この祈りから始まった城壁再建が無事に完了した後の場面が、今日読んでいただいたみことばです。クライマックスです。そこでは感謝に満ちた、大賛美集会が行われました。
12章43節 彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。
神様への賛美と喜びに満ちた神の家族の歌声は、はるか遠くまで響き渡ったのです。ここでは、女も子どもも喜んだので、とあります。男性社会だった当時の社会にあって、非常に珍しい驚きの姿でした。なぜ、彼らは、子どもも女性も、様々な立場の人も一緒に喜べたのでしょうか。それは、この城壁再建を通して、城壁再建より大切な、愛の交わりの復興がなされたからではないでしょうか。愛の交わりの再建がなされたからです。
城壁再建の働きは、猫の手も借りたい状態でした。材料も道具も十分ではなかった。なりふり構っていられませんでした。普段大工仕事なんてしたことがないようなお嬢様、力のない人々、お年寄りや子どもたち。彼らも一緒に協力し合ったのです。
しかし、復興のために、様々な差別にエネルギーを注がず、同じ思いを持つ者たちが、老若男女問わず一緒になって主に仕えたのです。だからこそ完成した時に、一緒になって神様を賛美し、喜びの歓声を上げたのだと思うのです。悔い改めから始まり、皆で一つになって主に従い、愛し合う中で、「神の家族」としての一致が少しずつ育まれたのではないでしょうか。
20数年前、牧師インターンでお世話になった教会で教えられました。我が家の子どもたちがまだ3歳と1歳の二人の時でした。環境の変化で礼拝中騒がしい。申し訳ないと思った。ところが、周囲の方々がすごく助けてくださった。シールや絵本を用意して、一緒に静かにできるよう助けてくれました。礼拝後も「元気なお子さんたちね!」と嫌味を言わず、「いい子だったね」と皆さんがほめてくださいました。まさに他人事ではなく、一緒に礼拝できるよう家族のように親身になって助けてくださった。温かいと感じました。そういう学びをされていたのです。
私たちも、そういう共同体を目指しています、主のみこころだからです。一人の子が泣いていたら、「あの子、うるさいね。親は何をしているのか!」ではない。「私たちの子が泣いている。皆で助けよう」と考える。悪いことをしてしまっている時も、「面倒だから関わらない」ではない。愛する家族だから、主に喜ばれる人になって欲しい。だから愛と忍耐をもって教え、注意するのです。病で苦しむ方がいる。「皆で祈ろう!大切な家族なのだから」と。ご年配の方が困っていたら、「私たちのおじいちゃん、おばあちゃんが困っている!何とかしようよ」と考えるのです。他人事にすれば、孤独が生まれます。しかし、互いに関心を持って助け合う交わりは、温かい愛があふあれてきます。
3.彼らの喜びの歌声が、宣教となった
この節の最後にこうあります。「エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」。この表現に心を打たれるのは私だけでしょうか。実際にどのぐらい遠くまで届いたのかはわかりません。けれども、子どもも女性も、当然お年寄りも、皆で一緒に喜び、一緒に主をほめ歌ったのですから、彼らの大きな声は実際に遠くまで聞こえたことでしょう。あるいは、もう少し比喩的な意味で、エルサレムの愛の共同体の姿が証しとなって遠くまで伝わったという意味も込められているのかも知れません。実際、様々な妨害がある中でも、信仰をもってあっという間にエルサレムの城壁再建がされたことは、諸外国にも響き渡ったはずです。
神の御名のもとに、子どもからお年寄りまでが、神の家族として互いに支え合い、愛し合うこの交わりが、短期間での城壁の完成という実を結んだのです。これこそ、コロナ下で交わりが失われ、分断が進んでいるこの時代に、教会が誇れる素晴らしい宝です。
口先だけではなく、神の家族になりましょう。声を合わせて、One Voiceとして、主に賛美をささげましょう。One Voiceとしてキリストの愛を伝えましょう。私たちはお互いを見捨てない。立場が違っても、背景が違っても、主が出会わせてくださった人々です。たとえ、病のゆえにこの場に集えていない方々があっても、決して欠けて良い人はいない。同じ主イエス様のからだの大切な一部なのです。偶然じゃなく、主の計画で出会わせてくださった愛すべき家族です。偶然ではないのです。たまたまではない。主が出会わせてくださった大切な家族です。ネヘミヤの祈りに学びましょう。「彼ら」「あの人たち」と他人事にしない。あなたの学校、職場、近所、親戚、家庭のために、他人事ではなく、「私の愛する隣人たちをお赦しください。救ってください」と祈ろうではありませんか。教会の兄姉たちのために、「私の愛する家族をお守りください」と祈ろうではありませんか。
主イエス様は弟子たちを深く愛して言われました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35) 互いに愛し合いましょう。互いの間に愛があるならば、人々は私たちのその愛を見て、「彼らこそキリストの弟子だ」と言うでしょう。
一人の声では、かき消されても、皆で声を一つにして歌う時、その声は簡単には消されません。むしろはるか遠くまで、多くの人の心にまで届けられるのです。
引用元聖書
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