東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ1章22-26節 「私の願いと神の願い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/11/14

ピリピ1章22-26節 「私の願いと神の願い」

 *** 11/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 イエス様は十字架にかかる直前に、葛藤を覚え、悲しみもだえられました。そして、ゲツセマネの園にて祈りの格闘をなさったのでした。その祈りはこのようなものでした。

わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と。



 私たちは誰でも、自分の望み通りになることを願います。それは当然のことでしょう。イエス様でさえ、十字架の死という杯について、できるなら「過ぎ去らせて欲しい」と願ったのです。しかし、イエス様の祈りが私たちにとって本当に良きモデルであるのは、次のゆえです。すなわち、最終的にイエス様は自分の望むようにではなく、御父の望まれるままになさってくださいと祈るに至ったからでした。私たちも自由に神様に自分の願いを祈ることが許されています。私の願いを祈って良いのです。しかしながら、それよりも神様の望まれることがなされるようにと祈ることが、信仰による祈りなのです。

 記憶が定かではないですが、ある書物にこのようにありました。「祈りとは、自分の願いをかなえるわざではなく、神のみこころを知るためのわざである」と。イエス様の祈り、あるいはパウロの信仰を見る時に、本質はそうなのだと教えられます。

 今日のパウロの葛藤にも現れています。彼はできるならもう命を取られ、主のもとに行きたいとさえ願いました。しかし、まだしばらく生かされて、苦しみの道を歩むことが神の望みであるなら、それにまさるものはないと告白しているわけです。私たちも、自分の望みがかなうことよりも、神様の望まれることがなるようにと祈る者となりましょう。

22-23節に、パウロの葛藤が語られています。

22節 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23節 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。 

 パウロは苦しみながらも生き続ける道が良いのか、あるいは死んで天に召される方が良いのか悩んでいるのです。もし生かされるならば、働きを継続して実を結ぶことができる。それはとても良いことです。ですが、死すならば、様々な働きを終えて、神様のもとに行くことですから、それもまたとても幸いなことに思えたのです。いや、むしろ、自分のことだけを考えれば、死んで天国に行くほうが良いとさえ思えたのです。

 23節後半で彼はこう言います。 
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。 

 正直にこのように告白しています。パウロも人間ですから、様々な迫害、拷問、人々の殺意が恐くないはずはありません。多くの苦しみがありました。私たちも自分のことだけを考えたら、さっさと神のもとに召された方が幸いだろうと思えます。もちろん、このように言えるのは、神様への全幅の信頼があるからですよね。神様のもとには、平安があり、幸いがあると信じているのです。死して主のもとに行けば、もはや様々な戦いから守られ、妨げられることなく主との交わりに歩める。それを信じています。その意味ではクリスチャンは本当に幸いです。「死」でさえも、このように受け止められるのは、なんとありがたいことでしょうか。

 しかしながら、その動機はどこから来るものでしょうか。「もはや、死んで主のもとに行きたい」という思いは、愛からの動機でしょうか。ともすると、自分だけの願いなのではないでしょうか。パウロもここで、あくまでも「私の願いは」と断っているのです。神の願いではなく、私の願いに過ぎないとわかっているのですよね。そして、私の願いよりも、神様の願いが良いということも彼はわかっています。それがすべての人の幸いにつながりと知っているのです。

箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。

 何よりも大切なことは、自分の願いではなく、神様のみこころがなることです。イエス様のゲツセマネの祈りをパウロも知っていたでしょう。そして、そもそもこのいのちは、自分のものではないのだということも彼はよく理解していたはずです。生きるも死ぬも神様がお決めになることで、それが最善であると彼は知っていたのです。ですから、パウロにとって最も大切なことは、「神様のなさる最善が何か」ということでした。では、最終的にパウロはどういう判断に至ったのでしょうか。パウロはこう考えたのです。

24節 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
25節 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。 

 自分にとっては、この世を去って天の主とともにいることが一番である。しかし、ピリピのクリスチャン達や他の人々にとっては、パウロがもう少し生きることが必要であると神様は定めておられた。生きて、再びピリピ教会を訪れることが、主のみこころなのだということです。それは25節にあるように、兄姉たちの「信仰の前進と喜びのため」でした。私たちも、自分は「もういいや」と思う時もあるでしょう。しかし、神様があなたの周囲に置かれた人々の救いや励ましのために、生き続ける必要があるのです。

26節 そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。 

 パウロがこのまま獄中で死ぬよりも、そこから解放されて、再会を果たすことによって、また一つ、キリストを誇れる要素が増えると言うのでしょう。こうして、神の視点で見るならば、パウロが生かされてピリピの兄姉と再会することは、より益とされることでした。パウロのこの後の歩みは決して楽なものではなかったはずです。これだけ苦しんでいるパウロですから、早く主のもとに行きたいという誘惑はあったでしょう。しかし、主が生かしてくださるなら、そこに主のより良いご計画があるのです。

 私自身もまた様々な悩みや葛藤の中で、できれば自分の望み通りになって欲しいと期待しています。例えば病も癒されることが望みです。また、様々な挫折も痛みもできれば通りたくありません。平穏が私の望みです。しかし、その病がある方が、挫折を通る方が、より神様の栄光を現すことになるのなら、より人々の救いにつながるのなら、その杯を喜んで受ける者でありたいのです。

 あるいは、様々な重い責任についても、以前ならば、何が何でもお断り申し上げたい杯というものがありました。しかし、今は、主がそうせよとおっしゃる場合には、喜んでお受けしますと祈る者へと変えられました。依然として恐れはあります。忙しくなるのは火を見るより明らかです。体力的にもきついでしょうし、ストレスも半端ではないでしょう。それでも、神様のなさることが一番良いと信じています。

 皆さんはどうでしょうか。自分の願いと、神様の望まれること。どちらを祈り求めているでしょうか。多くの選択をしながら生きていく私たちです。しかし、その選択において、私の願うようにではなく、神様の望まれるようにしてくださいと「ゆだねる歩み」をしませんか。



引用元聖書
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