東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル7章1-19節「神に召された永遠の祭司」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/11/18

ヘブル7章1-19節「神に召された永遠の祭司」

*** 11/16(日)主日礼拝 説教概略 ***

 信頼できる「仲介者」がいて、とても助かけられたという経験があるでしょうか。信頼できる人が間に入って、紹介や推薦をしてくれたおかげで、仕事がスムーズに進んだとか、新しい出会いが生まれたということがありますよね。



 聖書中にも、そうした例が色々あります。例えば、散々教会を迫害してきたパウロ。彼がキリスト教会の共同体に加わることができたのは、バルナバという人が仲介してくれたからでした。そのお陰でパウロは仲間に加わり、非常に用いられていきました。その意味では、仲介者、とりなし手の存在は本当に大きいと言えます。

 本日のテーマとなっている「祭司」とは、まさに仲介者やとりなし手であります。神様と私たちの間の仲介者です。罪ある私たちのために祈り、神様との交わりを回復へ導く存在です。そして、イエス様こそが最高の祭司、仲介者なのです

 私たちの多くの過ちについて、主イエス様が父なる神の前で弁護して「彼らをお赦しください」と訴えてくださるのです。それだけではなく、和解のために必要な犠牲を「わたしが支払います」とご自分のいのちを犠牲にしてくださったのです。神によって立てられた「永遠の祭司イエス様」について、みことばから教えられて参りましょう。


1.メルキゼデクの例 

最初に今日読んでいただいた箇所の直前、620節に目を留めていただけるでしょうか。

620 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。 

 イエス様は、私たちのために父なる神様への道への先駆け、仲介者なってくださったと語られています。「先駆け」とあるように、イエス様自らが、この救いの道を私たちの先頭に立って導いてくださるのです。「話はつけたから、あとは一人で勝手に行きなさい」とは、イエス様は言いません。私たちの前を行き、私たちの隣で支え、私たちの後ろも守って下さるのです

 しかしながら、イエス様をそのような仲介者、偉大な神の祭司と認めないユダヤ人は少なくありませんでした。14節にあるようにイエス様はユダ族の人です。聖書の律法のルール上は、レビ族だけが祭司の職につけると決められています。それを根拠にして反対する者がいたのでしょう。

 ところが、この手紙の著者は、イエス様はそのルールを超えて存在する祭司なのだと示しています。そこにはきちんと「前例」があったのでした。神様は、イエス様の祭司職については、はるか昔、創世記の時代に一つの例を用意しておられたのです。それで「メルキゼデクの例に倣って」と説明しているのです。

 では、メルキゼデクとは何者でしょう。
 7章の1-10節でその説明がなされています。まず1-2節では、メルキゼデクの大まかな紹介です。彼は「サレムの王」で、同時に「いと高き神の祭司」であったとあります。サレムとは「平和(シャローム)」という意味で、後の「エルサレム」だと言われます。つまり彼は、アブラハム時代のエルサレムの王でしょう。ですからアブラハムが得た戦利品の十分の一を彼に献上し、彼から祝福を受けたというのも頷けます。7「言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。」とある通りです。

 また、彼の名メルキゼデクの意味は「義の王」です。ですから、2節にあるように彼は「義の王」「平和の王」でした。「義の王」、「平和の王」と聞いてどんなイメージを持つでしょうか。聖書では、イエス様を連想させる表現ですね。そして、メルキゼデクは非常に謎が多い人物として紹介されます。3節にこうあります。

3 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。 

 彼自身は普通の人間であったと思いますが、詳細が意図的に隠されています。いつどこで生まれ、いつどこで死んだのか。分からない。謎が多く、それでいて王であり祭司。それゆえに「神の子に似た者とされ」と言われます。誰かに世代交代したという記録もありません。後の者がこれを読むと、まるで御使いや神の御子のようにさえ見える、感じる。まさに、将来のイエス様のひな型、前例として神が直接召し出した大祭司だったのでしょう

 そして、メルキゼデクの時代にはまだ、十戒もその他の細かな教えもありませんでした。ですので、律法のルールによって立てられた祭司ではありません。血筋によらない。ルールによらない。ただ神が任命した祭司です。それゆえに、逆にどの律法よりも上にある偉大な祭司であると言えます。その偉大さを4節以降で著者は明らかにしているのです。祭司の祖となるレビですら、まだ生まれていない時代。レビたちの先祖アブラハムの時代です。その先祖アブラハムでさえ、メルキゼデクの前にひざまずく関係性。つまり、あらゆる祭司の頂点に立つのがメルキゼデクです。その正当な後継者、いや完成版がイエス様なのです。

 神様は思い付きで、御子イエス様を急に祭司にしたのではないと分かりますよね。永遠の昔からずっと計画して来られた。人間と神との橋渡しをすべきとこしえの大祭司として、主は御子を立てる計画を持っておられたのです。

それで16節にこうあります。

16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらず、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。

 イエス様は、メルキゼデク同様に肉体に関する、人間のための律法によって立てられたのではありません。朽ちることのない、いのちの力、神の力によって祭司として立たれました。この朽ちない、いのちの力こそが私たちを罪とその滅びから救うのです。


2.もっとすぐれた希望へ  

 さて、ここで、なぜ律法のもとにある祭司ではなく、いのちの力による永遠の祭司キリストが必要なのかを考えてみましょう。18-19節にこのようにあります。

18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、19 ──律法は何も全うしなかったのです──もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。  

 前の戒めというのが律法です。十戒を中心とした様々な律法、教えがありました。ところが、それらを完璧に守れる人など一人もいなかったのです。なので、律法を守ることによって救われる人は歴史上いなかった。その意味で律法は弱く無益です。

 しかし、そんな律法にも存在意義はありました。これらの律法は「心の健康診断」のようなものです。健康診断を受けるのは何のためでしょうか。それは、私たちの肉体に悪いところがないかを調べるためですよね。律法の重要な役目はそれです。肉体のために健康診断が必要なように、私たちの心や生き方そのものについての健康診断も必要なのです

 ですから、聖書の教えはそもそも、私たちを束縛して窮屈な人生を送らせるためのものではありません。何が正しく、何が悪いのか。神の基準を示すことによって、人間が自分の過ちや問題に気づくためにあるのです。

 もし、そこに気づくことができれば、「改善が必要である」と分かるからです。ただし、ここでは「前の戒めは、弱く無益なために廃止され、―律法は何も全うしなかったのです―」とありました。

 それは、「健康診断」には人を癒す力はないということです。

 診断を受けただけで、私たちは癒されるでしょうか。癒されないですよね。

 同じように、律法で罪や悪い部分を気づかされるだけでは、救われないし変えられないのです。むしろ、この罪の健康診断だけなら、落ち込むだけで終わりです。罪に気づかされるだけなら、私たちはガッカリするだけです。そして、聖なる神には決して近づくことなど決してできない人間だと自覚することになるでしょう。

 残念ながら人間は、何が正しく何が間違っているかを分かっても尚、悪いことを続けてしまう者なのです。仲良くしたいのに、口を開けば人を傷つけ言い争いになる。困っている人がいたら手を差し伸べる方が良いのに、人の目を気にし、あるいは自分のことを優先してできない。悪い習慣を変えたいのに、ついついその悪習慣を続けてしまう。分かっていても出来ない

これが「罪の力」なのです。罪の力には律法の教え、診断だけでは太刀打ちできませんね。

 それで、だからこそ、16節にあったいのち力による祭司、つまりイエス様の助けが必要なのです。神様は私たちに罪や闇を気づかせるだけでなく、もっとすぐれた希望を備えておられるのです。19節後半に「もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました」とあります。

 これこそが、イエス様という永遠の大祭司によって、父なる神様への救いの道という希望です。こうして自分の罪に気づくことにより、イエス様の十字架の赦しの価値が見えてきます。病がわかるからこそ、癒されたいと願います。悪いところを良くされたいと思います。愛がないから、愛の人になりたいと願います。人を傷つける者から、人を励ます者になりたいと思うのです。

 聖書の様々な教えによって、「自分には問題があるな」、「闇があるな」と気づけたからこそ、キリストによる十字架の癒しを求めるようになるのです。そう考えると、律法はイエス様のもとに人が導かれることによって、初めてその真の役割を発揮するのです。ですから、聖書はただの道徳の教科書として読んでいるうちは、できない自分を発見して落ち込むだけです。

 しかし、永遠の祭司イエス様のもとに導かれるなら、救いになります。イエス様はある場面で言われました。「良くなりたいか」と。あなたはどうでしょうか。良くないりたいでしょうか。過ちには赦しを、絶望には希望を、傷には癒しを得たいでしょうか。

聖書は、あなたを良いものとするためにあるのです。イエス様はあなたを癒すため、あなたを幸せにするため、あなたと神と和解させるために、祭司として架け橋となって下さったのです。そうして、神様の恵みと祝福に満ちた御座、平安満ちた憩いの泉へと伴ってくださるのです。

 イエス様こそが、神と私たちの間を取り持ち、和解へと導く永遠の祭司です。神と人の交わりを壊していた罪を取り除いてくださいました。罪を取り除くために支払われた代価は、イエス様のいのちです。神の御子のいのちがあなたのために払われたのです。あなたにどれだけの価値を神様が認めておられるかわかります。世界にあなた一人しかいなかったとしても、イエス様は喜んでいのちをささげるでしょう。あなたを愛しているからです。信じるだけでいい。イエス様を信じて、良くなりませんか。赦され、癒され、変えられる喜びを味わいませんか。


引用元聖書
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