*** 1/7(水)祈祷会 説教概略 ***
年末にある方が、ご自分の職場で出会ったクリスチャン(Aさんとします)のお話をしてくださいました。Aさんは最近亡くなられ、葬儀がキリスト教式であったことから明確に分かったそうです。ただ、職場でご一緒した際に、Aさんはとても明るく穏やかな方で、言葉や態度の端々にその香りが漂っていたと言います。みことばと生き様が一致しているクリスチャンであるように思えたそうです。また、教会でも非常に忠実な信徒さんだったとのこと。その話を伺い、Aさんのようなクリスチャンがいらっしゃることに、私もとても励まされました。
その人柄や生き方で証しすることの大切さを覚えます。私たちもイエス様を信じて救われて終わりではありません。聖書が語っている救いとは、イエス様を信じた瞬間だけの出来事ではなく継続的なものですよね。信じた時から始まり、日を追うごとに救いの恵みが豊かにされ、地の塩、世の光として輝いていくことです。
1.救いの達成とは
12節 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
おそらく多くのクリスチャンが「救いを達成するよう務めなさい」という表現が気になることと思います。人の行いによらず、恵みのゆえに信仰によって救われるのですから。しかし、ここで語られる「救いの達成」とは、瞬間的な救いのことではなく、信じた後の信仰生活の成熟の話なのです。
この手紙はピリピのクリスチャンに宛てた手紙ですから、基本的には救われている者たちに対して、その救いを豊かに保ち、霊的に成熟していくことを願って書かれているわけです。特に「達成」ということばには、「完全に機能する」という意味があります。救いの恵みが完全に機能して、非常に豊かにされている状態を指すのではないでしょうか。それは信じたばかりで至る状態ではないですね。やはり日々、みことばに歩み変えられていく必要があるのです。 その成熟した姿が15-16節で語られています。
15節 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
16節 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
「非難されることのない純真な者」となること。「傷のない神の子ども」となること。また、「世の光として輝く者」となることが語られています。
これらこそ、「救いを達成した姿」ではないでしょうか。救いの恵みが完全に機能するとこうなるのです。そして、この3つはどれも、「自分さえ天国に行ければ良い」という発想とは真逆のものです。むしろ、周囲の人々への証しのために、あるいは人々の救いのために、こうした姿に至って欲しいと思うものです。
神様もまた、私たちにこうあって欲しいと願う姿ではないでしょうか。というのは、15節では「曲がった邪悪な世代のただ中にあって」とあり、この時代のすべての人のために、キリスト者が輝いて欲しいからです。同様に、16節でも「彼らの間で」とあります。この罪に満ちた暗闇の世界、曲がった邪悪な時代に、私たちクリスチャンが光となることを熱心に求めなさいと聖書は語っているのです。自分さえ救われていれば良いと考えないで、他の人々への証しとなるように。そのために、「非難されることのない純真な者」、「傷のない神の子ども」、「世の光として輝く者」となるよう努めなさいと。これこそが、12節の命令、「救いを達成するよう努めなさい」という命令の主旨なのです。一応天国に入れます!で終わらないで、この世に対して良い影響を与える、もたらせる存在としてイキイキと輝いていくことです。
2.救いの達成への道は?
では、どうしたらそのような「救いの達成」へと進めるのでしょうか。神のみこころに従順にまっすぐに従って生きていくことによってです。12節に、いつも従順であったように、パウロと離れている今は、なおさら従順であるように教えていますね。神のみこころに従順であれば、13節のように、神様ご自身が私たちにうちに存分に働いてくださるのです。
13節 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
みこころを行うためであれば、神様は惜しまず力を与えてくださいます。逆に力が与えられない、気力がわかないという時は、みこころから外れている可能性もあるかも知れませんね。みこころであるならば、私たちのうちに住まわれる主の御霊が志をも立てさせて、事を行わせてくださるのです。行う力だけではない。私たちの内側に志を立てさせてくださるというのが、励ましですね。「これをしよう!あれをしよう!」というやる気を起こさせてくださるのです。そして14節にこうあります。
14節 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
神様のおことばが良いもので、完全であることを信じて、不平も疑いのことばも持たずまっすぐに主のみことばを実行するように教えられています。16節では「いのちのことばをしっかり握り」ともあります。疑わずに、心から信じていのちのみことばに生きることが大切ですよね。不平や疑いに囚われていないでしょうか。神のみことばに間違いはありません。愛に満ちたいのちのことばです。ですからまっすぐ疑わずに、このみことばの道を黙々と歩もうではありませんか!!
このようにして、ピリピの兄弟姉妹たちが、赤ちゃんクリスチャン、自己中心クリスチャンで終わらないことをパウロは切に願っています。彼らが継続的に、救いの達成に向かって成熟していくならば、パウロはこれまでの労苦が無駄ではなかったと、キリスト再臨の日に誇れると言います。それが16節の最後で触れられています。そして、もし、ピリピのクリスチャンたちが、そのように成熟するならば、パウロは自分が「注ぎのささげ物」となっても、つまり迫害され殉教したとしても、心から喜ぶのだと証ししています。17-18節です。
17節 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
18節 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
パウロの価値観がわかります。自己満足や自己実現を目的としていないのです。自分の繁栄、自分の保身など微塵も考えていない。その意味では、パウロのこの姿勢こそが、「非難されることのない純真な者」、「傷のない神の子ども」、「世の光として輝く者」です。
引用元聖書
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