東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル7章20-28節「いつも!いつまでも!」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/01/12

ヘブル7章20-28節「いつも!いつまでも!」

 *** 1/11(日)主日礼拝 説教概略 ***

 携帯電話を新しい会社に換えようとする際、数か月無料だとか、キャッシュバック、一年目は安いなどのサービスがあったりします。何事も入り口は広くて大サービスで人を集めるのです。けれども、長く利用している人に対しては、案外サービスが落ちていくものです。本来は長く愛用している人ほど、より良いサービスを受けられるのが妥当でしょう(もちろん、そういうものもある)


 結婚生活もまた、結婚当初はお互いに初々しい新鮮な気持ちで過ごしていることでしょう。しかし、人間は良くも悪くも慣れるものです。最初の新鮮さは失われがちです。初めの愛はどこに行ったのか・・・という現実があることでしょう。

 その点で行くと、主イエス様の素晴らしいところは、初めの愛を最後まで貫いてくださることです。永遠に私たちの最高の友であり、とりなして祈り続け、支えてくださいます。しかも、「今忙しいので、今度ね」と言わない方です。「いつも」、そして、「いつまでも」、この方は愛に満ちた私たちの永遠の祭司でいてくださるのです。みことばから、この恵みについてご一緒に教えられ、豊かに励ましを受けたいと願います。

 

1.主イエスのとこしえの祭司職  

ここでは一般の祭司とイエス様の違いを明確にしています。イエス様の祭司職は、一体どれほど優れているのでしょうか。20-22節 

20  また、神による誓いなしではありません。レビの子らの場合は、神による誓いなしに祭司となっていますが、21  この方は、ご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました。 「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」22  その分、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです。 

 一般の祭司はただ律法の定めに従い、ある意味機械的に立てられます。また、罪ある人間の祭司ですから、一時的で不完全な存在でした。繰り返し罪を犯す人間ですので、そのための動物の犠牲も沢山必要でした。また、高齢になったら引退せざるを得ません。しかし、イエス様が優れている点は、まず「神の誓い」という確かな保証によって立てられた点です。しかも『あなたはとこしえに祭司である』と、神ご自身が宣言されました。「とこしえに祭司である」わけですから、イエス様という祭司の務めは、お休みもなく交代もなく永遠に続くのです23-24節で語られていますよね。 

23  また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、
24  イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。 

 旧約聖書ではレビ族から祭司が立てられることが定められていました。しかし、どの祭司も人間です。だから、いつまでもとどまることは出来ないのです。23節にあるようにまさに数えきれないほど「大勢の者が祭司となって」きたのです。 

 では「永遠」の祭司なら、それだけで良いのでしょうか?不誠実で冷たい人が皆さんの永遠の祭司だったらどうでしょう。そのような人に、永遠に厳しく冷たく指導され、叱られ続けるのはまっぴらごめんでしょう。いや、素晴らしい人格の祭司でも、年を取れば衰えます。話がくどくなり、記憶力も判断力も落ち、間違いも増えるでしょう。人は衰える生き物です。しかし、イエス様は柔和でへりくだっていて、優しい愛の方。衰えを知らない完全な方。このようなお方だからこそ、永遠に生きていてくださることが素晴らしいのではないでしょうか。

 

2.完全な救いを与える方  
25節をご覧ください。

25  したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。 

 ここには、「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられる」とあります。イエス様は、休業もなければ、眠っていることもありません。いつでも私たちのためにとりなし、父なる神との親密な交わりを支えてくださるのです。だから、ご自分によって神に近づこうとする者すべてを、「完全に救う」ことができるのです。

 「完全に救う」とは、部分的でなく、限定的でもないということです。どんな罪をも隅々までお赦しになります。何度でもです。さらにその赦しは完全なので、過去の罪を掘り出して再び責めることもありません。結婚前カウンセリングで「喧嘩はルール内で行うべし」とお伝えしています。特に、「あの時もこうだったよね」と過去の失敗や過ちを引っ張り出して来て、何度も責めるのはルール違反だと。謝罪があり、一度赦した問題は、再び引き合いに出してはならない。それが完全に赦したということだと。同じヘブル書の1017節をお開きください。エレミヤ書とイザヤ書を背景にした引用としてこうあります。「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と。赦したものを思い起こさないと主は言われるのです。だから平安があるのです。

 何度もねちねち言われると、結局、ずっと赦されないのだと絶望します。完全な救いは、完全な赦しとセットなのです。未来に起こる罪さえもことごとく赦してぬぐい去り、父なる神の恵みの座に留まらせて下さるのです。「釣った魚に餌をやらない」という言葉もありますが、イエス様は救われた人を放っておきません。それどころか、イエス様は釣った魚を大事にし、もっと良いエサを与えまくりです。最後の最後まで(いつまでも)面倒を見てくださるのです。残念ながら、私が誰かをどんなに助けたいとしても、いつまでも生きながらえることは出来ません。引越し先について行くわけにもいきません。夜中も可能な限り寝させてください。ですから、ずっと見守ったり、いつでも相談に乗ったりすることはできないのです。人間の限界です。しかし、永遠の大祭司は、いつも、いつまでも、あなたを守ってくださいます。

 また、この方は罪も汚れもシミ一つない聖なる方です。26-27節にこうあります。

26  このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
27  イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。 
 イエス様に罪があるならば、私たちと何ら変わりません。同じ罪人に私たちを救うことはできないでしょう。100%の信頼も置けないでしょう。しかし、ここにあるように聖なる方ゆえ、自分のためには、悔い改めも犠牲をもささげる必要のないお方です。他にこのような祭司はいませんよね。罪が一つもないお方だからこそ、私たちの救えるのであり、私たちには必要不可欠なお方なのです27節の後半にはこうあります。

27  イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。 

「ただ一度で」成し遂げた!この点が重要です。ただ一度でいい。それは、完全で永遠の力がある方にしか使えないことばです。

 私は公に出される文書であるほどに、書いてから何度も見直します。その上で妻にも見直してもらう場合もあります。それでもなお、直すべきところが時々見つかるのです。何度も見直して尚不完全なのです。ですから「ただ一度で完全に成し遂げる」というのは本当にあり得ないことではないでしょうか。神わざなのです。イエス様は失敗のない方、過ちのない聖なる方。この方の献身だからこそ、ただの一度でいいのです。人間の祭司は、最高に人格が優れたスーパーな人材だったとしても、やはり何度も自分の罪を告白し、犠牲を繰り返し献げる必要がある。しかし、イエス様は完全です。聖なる聖なるご自分のいのちを犠牲にしたのですから。それゆえ、たった一度の十字架の犠牲で十分なのです。過去の人々も未来の人々もその十字架を信じるなら救われるのです。

 

3.救いのわざが完全であるゆえに  

 だから、私たちも何度もイエス様を信じ直す必要がありません。ただ一度「信じます」とイエス様を心にお迎えすればいい。それは私たちの信仰が強いからではありません。信仰深いからではない。イエス様が、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言ってくださっているからです。そのことばが100%真実であるゆえに一度でいいのです。主の約束が完全だからです!!
 ただ一度、「イエス様に心からあなたを信じます。十字架の恵みを受け取ります」と祈るなら、その救いは永遠です。

 ある牧師がこのように言っておられたのを思い出します。自分はいつも不安になるたびに、「イエス様、私とともにいてください」と祈っていた。でも、ある時気づいた。イエス様は私から一度たりとも離れたことなどないではないか!と。イエス様は見放さない、見捨てない方。自分への初めの愛を最後まで持ち続けるお方。既に、「いつもともにいてくださる方」だったのです。それなのに「ともにいてください」と祈るのはおかしいと気づいたと言うのです。主はいつもすぐ隣にいて下さるのに、自分がこの方を見ていないだけだった。その真実に気づかないでいただけであった。片時も離れず、こんなにも愛され続けているのに、自分がその愛から目を離してしまっていたのだと。

 創世記に登場するヤコブという人物がいます。彼は兄エサウを騙したせいで本気で憎まれ、いのちを狙われました。それゆえ、家を出るしかありませんでした。一人でさみしく、遠い親戚の家まで旅をすることになりました。750kmほどの道のりです。もう戻っては来られないかも知れないとの考えが頭をよぎったでしょう。旅の途中、彼はベテルという場所で野宿をしました。すると、夢に神が現れ、明確なことばを聞きました。そのままをお読みしますね。 「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」 彼はこの夢を見て、このことばを確かに聞いた時、眠りから覚めて言いました。

まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった」  

 主はあなたの家に、あなたの職場に、あなたの学びの場にともにおられる。それなのに、主を見失い、主の声が聴こえなくなってはいないでしょうか?いつも!いつまでも!あなたの隣におられる主です。永遠の友、永遠の大祭司として、あなたを救い、あなたを守り、あなたに恵みをくださる方なのです。さあ、目を覚まして、この方といつも、いつまでも歩んでいきましょう!



引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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