東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ3章1-3節「御霊の与える喜びに生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2026/01/30

ピリピ3章1-3節「御霊の与える喜びに生きる」

*** 1/28(水)祈祷会 説教概略 ***

 聖書では「喜びなさい」「喜んでいなさい」と、喜ぶことを命令形で語る傾向があり、特徴的なことです。しかしなぜ、命令形なのでしょう。それは私たちが主にある喜びに生きることが、大切な神のみこころだからです。神を信頼する者は、喜ぶことによって神の栄光を現わせるのです。また、キリストにあって喜ぶクリスチャンの姿は、証しになるのです。


1節 最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。

 早速、「喜びなさい」と命令形で語られていますよね。いかがでしょう。皆さんは、喜んでいるでしょうか。しかし、喜べない事情も色々ありますよね。健康面の様々な課題、人間関係の悩み、過酷な試練。それらを前にして「喜びなさい」と言われても、非常に難しいものです。それでも聖書は「喜びなさい」と私たちに神のみこころを示します。では、どうしたらいいのでしょうか。みことばは、どのように教えてくれているのでしょうか。

 

1.兄弟姉妹の交わりの中で喜ぶ  

 こ1節では「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」と語られています。「兄弟たち」ですから、クリスチャンへの訴えです。そして、一人の人に語っているのではありませんね。この「喜びなさい」ということばも「複数形」で、あえて訳し出すなら「あなたがたは喜びなさい」と訳せます。日本語の命令形には単数・複数の区別がないので、ピンと来ないかも知れませんが、ギリシア語にはその区別があります。

 実は、Ⅰテサロニケ5「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」の部分も、同じように複数形です。ですから「喜びなさい」という命令が、個人に向けた者ではないと分かります。兄弟姉妹たちの交わりの中で、みんなで共同体として喜ぶようにと語られているのです。この点が喜ぶための第一のヒントです

 私たちは一人で「こっそり」ではなく、みんなで喜ぶように教えられているのです。困難な時、厳しい迫害がある時、一人では喜べないことがあります。しかし、喜び得ない時でも、互いに励まし合える兄姉たちによって、一緒なら喜ぶことができるようにされます。交わりによって励まされ、祈られる中で不思議に喜びが与えられていくことがあります。

 自分自身の信仰が弱くて、喜べないことがあるかも知れません。けれど、そんな時に、主にある喜びを力強く語り、証ししてくれる兄弟や姉妹が近くにいてくれれば、その中で一緒に喜べるようにされるのです。そういうことがありますよね。だから、この交わりをやめてはならないのです。時に面倒だと思えます。家でゆっくりしたいと思うこともあるでしょう。でも、信仰の友との交わりが、喜びの力になります。

 

2.神の恵みによって喜ぶ  

 さらにここでは「主にあって」と語られているのです。「主にあって」です。いつでも、主のうちで、主の力によって喜ばせていただくのです。ここにある「喜びなさい」ということばは、「カリス」という「神の恵み」を現わすことばから来ています。喜びとは神からの恵みとして、与えられるもの。だから、神の恵みを存分にいただけるクリスチャンは、喜ぶことが出来るし、喜びなさいと命じられているのです。

 ですので、人間的な、この世的な喜びを求めず、「神の恵みによって(神の恵みの中で)喜びなさい」ということです。ネヘミヤ記810節に、ネヘミヤのこのようなことばがあります。「悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」。主ご自身を喜ぶこと。それは私たちクリスチャンの力になる。主を喜ぶことは、私たち自身の力!だから、主を喜んでいる時、私たちは霊的にも豊かにされ、その姿は求道者への証しになる。


3.見せかけの者たち

 しかし、このピリピの教会やその周辺には、神の恵みから離れて、真の喜びに生きていない者たちがいました。恵みから離れた「見せかけの信仰生活」では、喜びもないのです。それでパウロは、その点を繰り返し警告しているのです。2節です。

2節 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。 

 この節は、3つの似た文章にて、リズムよく語られています。原語は「気をつけなさい」ということばが最初に来ていますので、その語順のまま訳すとこうなります。「気をつけなさい!犬どもに!気をつけなさい!悪しき働き人たちに!気をつけなさい!肉体だけの割礼者に!」と。インパクトがありますよね。

 最初の「犬ども」というのは、元々はユダヤ人たちが、異邦人を汚れた者として見下して使うことばでした。しかし、多くのユダヤ人指導者たちは、イエス様を信じないで、かえって十字架につけてしまいましたよね。ですからパウロは、神のみこころを受け入れず、異邦人を見下すユダヤ主義者こそ、「犬」であると言うのです。

 次の「悪い働き人たち」とは、悪い偽りの教師でしょう。表面上は神を敬うようなことを言うけれど、「自分たちの利益のために」人を扇動していた人々です。キリストに仕える人ではなく、この世や自分に仕える人です。

 三つ目の「肉体だけの割礼の者」とは、外面的な割礼という行為だけで、信仰の中身のない人たちのことでしょう。「割礼」は、異邦人と区別される外的なしるしでした。しかし、旧約聖書のいくつかの箇所では、「心の割礼を受けなさい」という神様のおことばが既にありました。心において神様にお従いすることこそ神様のみこころで、心の割礼でした。面白いことに、この2節の「割礼」と訳されている語は、聖書中ここだけでしか使われていないレアなことばで、「切り捨てる」という意味です。パウロはこの語を使って「ただ肉体の一部を切り捨てただけの行為だ」皮肉を込めて使っているのです。中身の伴わない「割礼」は、ただむやみに肉体を傷つけているに過ぎないと言うのです。

 このように、神のみこころから離れて、外面だけ信仰者を装う者たちに気をつけるようにと注意を促しました。彼らに流されず、彼らの仲間にならないようにと。

 

 ご一緒に語られて参りました。主にあって喜ぶ偽りでない信仰者とは、どういう人たちでしょうか。3節にあります。

3節 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。 

 自分自身を誇らず、ただ神の霊によって礼拝をし、キリストを誇る者。実にこのようなクリスチャンこそ、心に割礼を受けた者なのです。すなわち、真に神のものとされた人の姿。こういう者たちだからこそ、主にあって喜べるのです。 人間的には喜べない時がある。しかし、兄弟姉妹との交わりを絶やさず、御霊によってキリストだけを誇り、主の恵みによって主を喜ぶことができるのです。

 主を喜ぶことこそ私たちの力です。そのようなクリスチャンは、弱い者たちに喜びをもたらす手伝いができます。どんな時でも主を喜ぶ姿が、求道者への証しとなるのです。


教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *