東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ2章25-30節「見える結果ではなく」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/01/24

ピリピ2章25-30節「見える結果ではなく」

*** 1/21(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちはしばしば、見える成果に心を奪われがちです。集った人数や成し遂げた成果、かけた時間の記録など。それらも必要な情報であり、また分かりやすい判断材料なので、健全な理解をすれば有益です。しかし、神様がよりご覧になっている部分は、きっとそこではないのでしょう。私たち自身とその心をご覧になっているはずです。そのことは私たちにとって励ましです。成果として表には現れていない部分も、主はよく見ていてくださるからです。そのプロセスのすべてもまた、主へのかぐわしいささげものなのです。



ここでテモテに続いてエパフロディトという人物について語られています。パウロは次のように彼について説明します。

25私は、私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。 

 「あなたがたの使者」とあるように、彼はピリピからパウロのもとに派遣されてきた人物でした。ところが、今や、このエパフロディトをピリピに送り返す必要があるとパウロは言います。いったい何があったのでしょうか。26-27節。 

26彼はあなたがたみなを慕っており、自分が病気になったことがあなたがたに伝わったことを、気にしているからです。27本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。 

どうやら彼は、死ぬほどの大変な病気になったようです。そして、病によって働きが継続できなくなっていることをエパフロディトは非常に心苦しく思っていたようです。26節で、「彼はあなたがたみなを慕っており、自分が病気になったことがあなたがたに伝わったことを、気にしているからです。」とある通り。ただでさえ、大変な中にあるパウロを、少しでも助け支えようということで彼は派遣されたのです。ところが、彼自身が死ぬほどの病にかかり、かえってパウロに心配をかけるばかりになってしまった。現にパウロはかなり心配をしていたようです。

28そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。 

 大急ぎで彼を送り返すと伝えています。その意味では、エパフロディトは、本当に心苦しく思ったでしょう。自分を責めたかも知れませんね。派遣してくれたピリピの兄姉の期待に応えられず、パウロにも迷惑をかけてしまった。みんなに合わせる顔がない。それを責める人もピリピにはいて、それゆえ病を知られたことを心配していた可能性もあります。もし、私たちが彼と同じような立場であったならばどうでしょうか。やはり無力さを痛感し、挫折感が残るのではないでしょうか。派遣してくれた人々と会いたくないかも知れません。「役立たず」だと思ってしまうかも知れませんね。
 しかし、パウロはどう考えていたのでしょうか。そして、神様はどのように見ておられるのでしょうか。限られた期間であり、目に見える何かが生まれたわけではないかも知れませんが、それでも彼は主のために献身していたことを見て喜んでおられたはずです。パウロは29-30節で、このように語っています。 

29節 ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。
30節 彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。 

 パウロは彼をとても評価し、ピリピの兄姉に温かく迎え入れてもらえるよう取り計らっています。病で死にかけ帰ることになった彼について、「大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください」と言っています。25節でも「同労者」「戦友」と、彼のことを表現していましたよね。そして、人間的な視点で彼を迎えるのではなく、「主にあって迎えてください」と言います。彼の帰りを皆で心から喜び歓迎し、尊敬を払って欲しいのだと語るのです。なぜならば、30節にあるように、彼は自分のために働いたのではなく、キリストのために働いたからです。しかも、いのちの危険を冒してまで・・・。死ぬほどの病があっても、彼は主のために!と励む姿勢だったのでしょうね。その思いをパウロはよく見ていたのです。

 

 私たちも、目に見える分かりやすい成果があると、上手く行っていると思い込み、逆にそうではないと、何も出来ていないと落ち込みがちです。ここに一つの誘惑があります。これは、この世的な能力主義、成果主義の影響ではないでしょうか。おそらく、ピリピの教会に、このような価値観があったのだと思います。競争心、党派心があり、一致できない問題があったのですから、やはり目に見える結果で評価される面があったのだと思います。しかし、主はその奥にあるものを見ておられます。健康で体力があって、バリバリ働き、目立つ働きをした人は、何も言わなくても人々から称えられるでしょう。

けれども、主は目立たない、見えにくいところまでもご存知なのです。そこにある人の心、目立たない献身的な奉仕を喜んでおられるのです。教会では、目立たない奉仕を率先してなさる方が起こされて行くことが、尊いことだという考え方があります。福音自由教会の信徒の手引きには、それが記されています。誰も見ていないところで、落ちているゴミを拾ったり、破れを繕ったり、整えたりする人の存在が大切です。掃除をしたからと言って、何か見える成果は生まれないかも知れません。けれども、これらの見えない地味な働きなしには、教会の良い働きは継続できないのです。一人の人が救われるために、実は多くの人が関わっています。影ながら祈った人。やさしく接した人。聖書を開いてあげた人。会堂の清掃や準備など。本当は、それらすべてが人の救いにつながっているのです。

このように、たとえ目に見える分かりやすい働きが出来なくても、キリストの福音のために労する者の存在は、神に覚えられ用いられるのです。パウロ自身、エパフロディトの存在に非常に励まされたのではないでしょうか。数字にはならない、人間的には評価しにくい部分ですが、確かに主が彼をお用いになっていたのです。だから、パウロは彼をこのように評価し、尊敬を払うよう教えているのです。

 私たちの教会はどうでしょうか。ピリピの人々の期待に応えられなかったエパフロディトを私たちはどのように理解すべきでしょうか。パウロのように、霊的な視点に立って、表に現れにくい影の奉仕に敬意を払う姿勢があるでしょうか。逆に、目に見える成果の奴隷になるとき、目立たない力ある祈りの奉仕や、人に知られない犠牲的な奉仕が軽んじられてしまいます。それは、神の祝福を失う道ではないでしょうか。

 私たちは宣教のための駒ではありません。一人一人が神様の前に覚えられ、その一人一人のためにイエス様が十字架で血を流して下さったのです。イエス様がいのちをささげて下さった一人一人に足手まといはいません。私たちは信仰の目で物事を捉え、エパフロディトのように、目立たないながらも精一杯主に仕える姿勢を互いに大切にしましょう。


引用元聖書
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