「立派なクリスチャンは、こうあるべきだ」というイメージを、誰もが持っていることでしょう。しかし、ある米国の教会では、その入り口に「完璧な方はお帰りください」という貼り紙をしていたそうです。少しユーモアも感じます。「自分は不完全だ、弱く罪深い者だ、だから救いが必要なのです」と考える方のための教会だということでしょう。
聖書時代のパリサイ人や律法学者は、自分たちこそ完全な知識を持ち、教えをことごとく守る、神の民の模範だと自分を誇っていました。でも、そういう人は罪を悔い改めることができません。イエス様の十字架の価値が分からないからです。私たちも十字架を無価値なものにしないようにしましょう。むしろ、十字架なしには神の子になり得ない、神の愛なしには何者でもないと言えるような、恵みの証し者とならせていただきましょう。
17節
兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
パウロはここで「私に倣う者となってください」と読者に呼びかけています。それは「立派なクリスチャンになって下さい」という意味ではありません。むしろ逆です。行いによっては義となることができないと認める者となってください。不完全な罪人であることを率直に認めて、ひたすらに十字架の主を求めて歩む者となって下さいということなのです。
さらにこの17節では、「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」とも語られています。それはおそらく、パウロの弟子にあたる人々、すなわちテモテやエパフロデトなどであったでしょう。パウロだけでなく、彼らも同様でした。あの真面目で純粋そうなテモテも。宣教のために病になって、自分を責めてしまうような繊細なエパフロデトも。同じように罪深く、汚れた者。でも、彼らも恵みによって主の弟子とされ、弱さのうちに働く神の力を証しする者とされたのです。ですから、パウロに倣うとは、良い奉仕を立派にこなすことで良い神の人を演じる者ではなく、自らの愚かさに涙し、主の十字架の恵みを涙ながらに喜ぶ者のことです。
パウロは続く18-19節でこう続けます。
18節
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19節 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
ここでは十字架の敵とならないようにと涙ながらに訴えて来たことを証ししています。その最後は滅びだからです。そして、この「十字架の敵」として歩む人とはどのような人でしょうか。それは、単にキリストを否定し、信じない人々ではありません。十字架など必要ないとする、己の力によって歩む人です。自分の栄光によって、十字架の輝きを隠してしまう者たちです。パウロはまさに、かつての自分がそのような者であったことをよく知っています。だからこそ、その末路がどれほど神様を悲しませる道なのかが分かるのです。
「この民は口先では神を敬うが、その心は神から遠く離れている」とのことばがありますが、まさに口では神を連呼しながらも、実際の歩みは、神様の願いから遠く離れた生活になっていることがあり得ます。また、それは天のことも神のことも思わないで、地上のことだけ、自分のことばかりを考える歩みですよね。
しかし、パウロはこれらの人々をただ厳しく断罪したのではありません。「今も涙ながらに言うのですが」と言います。礼拝においては、預言者の涙は神の涙であるというお話をしました。パウロもまた、イエス様の悲しみを自分の悲しみとする者とされていたのです。ダマスコの途上で聞いた、あのイエス様の声を彼は忘れられなかったのかも知れません。彼の名が「サウロ」だった時のこと。「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」との声でした。
あの経験があるので、自分の歪んだ正義感によらず、ただ御霊によって主イエス様から目を離さずに歩むことを決意し、今のそれを続けているのです。その上で、20-21節では、キリストに信頼して天に国籍を持つ者にある素晴らしい希望を伝えています。その価値観に皆が歩んで行けるように願うからです。
20節 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21節 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
このような希望をもって、今を生きることができる私たちは、何と幸いでしょうか。この世の価値観では「年をとることは悲しい事」とばかり考えられています。肉体は衰え、孤独感は増し死に近づいていくからです。しかし、私たち天に国籍を持つものにとっては、年をとることは「希望」なのです。
ある教会のご年配の夫人が、牧師さんにこう語りました。「年を取るってとても素敵なことね。イエス様にお会いできる日が近づくことなのですから」と。その話を聞いた幼い子はとても励まされ、あんな風になりたいと願ったそうです。さらに、それだけではありませんね。復活後の私たちは、キリストと同じ栄光のからだをいただき、永遠に神様との祝福に満ちた交わりに歩めるのです!もう肩こりや腰痛になることもないでしょう。老眼からもおさらばです。人工関節も不要です。
このようにクリスチャンである私たちにはキリストの再臨は、大いなる希望、喜びです。しかし、一方で信じない方々にとって、それは「永遠の滅び」の到来を意味します。それゆえに私たちは、この福音の希望を滅びに向かっている人々にお伝えしていきたいのです。18節で、パウロはそのような人々のために涙ながらに語っているとありましたよね。イエス様もそのような人々のために涙を流し、そして十字架の上でいのちの象徴、血を流して下さったのです。
神様は今日も語っておられます。私たちも恵みによって変えられたパウロのように、自らを「罪人のかしら」と率直に認め、イエス様の十字架の恵みを深く豊かに受け取って参りましょう。また、私たちのそうした姿が、これから救われていく方々にとって、良い模範となるように歩みたいのです。それは、何度も言いますが「立派なクリスチャン」を演じることではありません。むしろ、「私は工事中のクリスチャンです」と証しすることです。工事現場の看板にあるように・・・まだまだ未熟で工事中なので、「大変ご迷惑をおかけします」と頭を下げながら、歩んで行くのです。
