*** 3/29(日)受難週主日礼拝 説教概略 ***
暦の上では本日からの1週間を「受難週」と言います。そして、本日はイエス様がエルサレムに入られ、民がナツメ椰子の葉を持って歓迎した日です。「棕櫚の日曜日」、あるいは「パームサンデー」と呼ばれます。また、今週の金曜日は受難日と言われ、イエス様が十字架にかかられた日とされています。それを経て来聖日は、十字架の死から3日目、イエス様が死から復活したことを祝うイースターです。私たちは主イエス様の十字架の死と復活を心から喜び、感謝し、お祝いしたいのです。
そのために今日のみことばの理解は必要不可欠です。
皆さんはどんなものにお金を使うでしょうか。価値を見出しているものに対してではないでしょうか。食べ物が好きなら、飲食のために多くの財を投じるでしょう。旅行好きなら旅行のために。多少高くてもそこに価値を見出すなら代価を払います。
では、あなた自身の価値はどれぐらいだと思われるでしょうか。
みことばは、驚くべき真理を伝えています。神様があなたを救うために支払われた代価は、お金ではなくのいのちでした。神の御子キリストはあなたを取り戻すために、ご自分の血を流して死なれたのです。それは、「あなたがそれほどに大切な存在なのだ」という、神様からのメッセージです。こうして備えられた救いは失われることがありません。「永遠の救い」です。ご一緒にみことばから教えられましょう。
1.永遠の贖いをなしたキリストの血(11–12節)
イエス様の十字架の死、そこで流された血潮が何をもたらしたのでしょうか。
11節 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
12節 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
人が造るものはどれも不完全で、やがて古び、朽ちていきます。ですから神の御子キリストは、11節にあるように、人の手で造った物ではない、朽ちない完全な「天の幕屋」で仕える大祭司となられました。献げられる血もやぎや牛などの不完全な血ではありません。「神の子羊」と呼ばれるご自身の血でした。
聖書が語るには、血は契約のために必要なものでした。特に古代社会では印鑑ではなく「血判」が用いられ、自分の血で指の腹で印を押すのです。血を用いるのは「いのちをかけて誓い、実行する」という意味があったからです。キリストは文字通り、いのちをささげられました。「血はいのちの象徴」であると聖書は言います。大量の血が流されれば人はいのちを失いますよね。ですから、キリストはご自分の血によって恵みの契約を成立させ、ご自身のいのちをもって私たちを贖ってくださったのです。
こうして、12節にあるように「永遠の贖い」を成し遂げられました。
そして、この贖いとは、代価を払って囚われ人を自由にすることです。そこには買い戻すという意味もあり、罪や悪魔の奴隷となっていた私たちを、キリストがご自分の血の代価によって、神のもとに買い戻してくださることなのです。
イエス様を信じたすべての人は、神のもとに立ち返り「神の子ども」とされたのです。神の恵みと祝福を受け継ぐのです。神の国で永遠に生きる者とされたのです。そして、大切なことは、二度と悪魔に買い戻されることはないということ。「ただ一度だけ」とあるのは、そのみわざが完全、永遠であるからです。イエス様から見捨てられることは決してなく、救いのやり直しは不要なのです。「永遠の贖い」なのです。
2.良心をきよめるキリストの血(13-14節)
その聖なるキリストの血・いのちの力は、私たちの日々の歩みのすべてを新しくし、いのちの道に歩める者とされます。13-14節にこうあります。
13節 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
14節 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
不完全であるとはいえ、普通の動物を献げる儀式ですら、それにより滅ぼされることなく神の御前で奉仕することができました。そうであれば、それよりはるかに優れ、完全な犠牲であるキリストの血潮は、どれほどの力をもたらすことでしょうか。
それは、「良心をきよめて死んだ行いから離れさせる」のでした。内側から変えられる力です。外側ならば割と簡単に変えることが出来ます。例えば言葉遣い、服装などは簡単に変えることができるでしょう。しかし、どんなに綺麗な言葉遣いにし、品の良い服装に着替えたとしても、その心は簡単には変わらないのではないでしょうか。むしろ心が一番難しい。だから悩み苦しむのです。人を妬むさもしい心、出口の見えない怒り、ふとした瞬間に出る冷たい態度。そして、そんな自分を許せない自己嫌悪の思い。これらは言葉遣いや服装では変えられないですよね。
しかし、神は、あなたの外側ではなく内側から造り変えるお方です。あなたのために注がれたキリストの血・その愛は、あなたを内側から新しくする救いの力です。天国に行けるとか、神の子の地位を得るという資格の話ではない。それに相応しく、あなたの心をきよめ、良いものにしてくださるのです。
「Walking with Jesus」という子ども賛美の歌詞に「イエスさまを信じて神の子どもとされた きたないこころは主によってきよめられた」とあります。シンプルな歌詞ですが、物凄く大きな恵みを歌っていますよね。一番取り扱いが難しい、汚い心がきよめられるという奇跡。主イエス様と共に歩む時、罪の束縛から自由になり、内側から変えられていき、生ける神の道に、喜びに満ちて歩んでいくことができるのです。
3.キリストの血、その重み(15-22節)
さらに、みことばは15節以降で、このキリストによる救いの恵みを「永遠の資産」として語ります。そして、その資産を与えるという神の約束は16節以降で「遺言」に例えられています。
16節 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
17節 遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。
遺言の効力が発揮されるためには、遺産をもたらす側の死が必要であることが語られています。18節からはモーセ時代の契約の話を引用しながら、赦しやきよめには動物の血が流される必要があったと教えます。
22節にこうあります。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」。これは非常に厳粛なことばです。赦しは決して軽いものではない、ということを教えています。しばしば、キリスト教の赦しについて疑問を持たれる方がおられます。「どんな罪でも悔い改めれば赦されるなんて、都合が良すぎるのではないか」「謝ればそれで済むのか」「神の赦しがあるからそれでいいのか」と。こうした思いは、決して不自然なものではありません。むしろ、正しい感覚とも言えるでしょう。なぜなら私たちは、悪にはそれに見合う償いが必要だと知っているからです。
人を深く傷つけた言葉、取り返しのつかない過ち、長く残る苦しみ・・・それらは、「ごめんなさい」で消えるものではありません。罪は、決して軽いものではないのです。ですから主は、その事実を曖昧にしないのです。だからこそ語られるのです。血が流されることなしに、赦しはないと。では、その代価はどのようなものでしょう?誰が払うのでしょう?罪のない完全な方、イエス・キリストご自身のいのちです。私やあなたがどれほど罰を受けたとしても、罪が完全に償われるわけではありません。自分が罰を受け、死刑になれば償いができる・・・そう思うなら、それは人の傲慢です。小さな罪人の私が死んだところで、多くの汚れた罪の贖いなどできない。
だからこそ、キリストの死が必要だったのです。キリストの十字架の死だけが、罪の赦しと永遠のいのちを与える約束を、確かなものとする唯一の道でした。もし「そんなに簡単に赦されていいのか」と感じるなら、それは当然の感覚です。しかし、十字架を見上げていただきたいのです。そこには、決して簡単ではない尊い犠牲の赦しがあります。
同時にここには、払われる犠牲がどれほど大きく重くとも、尚、あなたを赦したいという神の愛があります。その愛の結晶がイエス様の十字架なのです。真っ赤な緋色のような私たちの罪。それはまるで燃え盛る火炎のようで、私たちを焼き尽くしても足りないほどです。しかし、聖なる神の子のいのちは、私たちの罪を赦し、雪のように白くするほど圧倒的です。キリストを信じるならば誰でも、罪赦され、きよくしていただけるのです。
主は私たちに問われます。「この尊い犠牲は何のために払われたと思うのか」「あなたはそれを分かっているのか」と。私たちは、自分の価値を見失いやすい者です。しかし、十字架の主が、優しい眼差しであなたに語りかけるのです。
「あなたは、わたしの血が流されるほどに大切な存在だ」と。
あなたのために払われた代価の大きさを知るならばこそ、私たちは主にあって喜んで生きるべきです。自分を貶めてはなりません。あなたを生かすための十字架の犠牲は小さくない。何のために救われ、何のために恵みを知る者となったのでしょう。何のため、今日生かしていただいているのでしょう。いのちの働きのためです。終わりの時まで、生ける神に仕えるためです。そのために、内側からきよめる救いを受けたのです。ただ平穏に暮らすためではありません。私たちのために死んでくださった方に、少しでもお返ししたいのです。