東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ4章14-17節「与える者が受ける霊的な実り」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/04/01

ピリピ4章14-17節「与える者が受ける霊的な実り」

*** 4/1(水)祈祷会 説教概略 ***

 受難週です。十字架の主の御名を賛美します。
 よく上手に財を使える人、大胆に投資できる人のところに富は集まって来ると言います。それはとても面白いことです。「お金は使えばなくなる」と考えがちですが、聖書のタラントの例えにもあるように、大胆に投資できる人にはさらに与えられることは不思議なことです。「金は天下の回り物」という諺もありますね。



 私たちの群れも少しずつではありますが、様々な宣教の働きを支援して参りました。そして、それに伴い教会が成長してきていることは不思議で、とても嬉しいことです。実に、喜んで自分を献げ、与える者となる時、主は豊かに祝福し、霊的な実りを増し加えて下さるのです。ともに教えられましょう。


14それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

 ここでパウロは、ピリピの兄姉たちが同労者としてともに歩んで来たことを振り返っています。特に、私とよく「苦難を分け合ってくれました」と感謝の気持ちを表しています。原語のニュアンスを直訳的に表現するなら、「それにしても、あなたがたはよくやってくれました。私の苦難をともに担うという点において」とも訳せるかと思います。

 「分け合う」ということばは、コイノーニアの派生語でして「ともに担う」と訳してもいいかと思います。パウロは孤独ではなかったのです。ピリピ教会の兄姉が苦難をともに担って歩んで来てくれたからです。具体的な助けと支援についても回顧していますね。15節です。

15ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。 

 ここから何が分かるでしょうか。ピリピの教会は、パウロが福音を伝え始めた頃、まだ他に支援があまりない初期から、その働きを具体的に支援してきた教会だったのです。

 まさに「同労の仲間」でした。ここには「私がマケドニアを出たときに」とありますが、マケドニアとはピリピを含む地方のことです。ピリピ地方から次の宣教地に移って行った際には、もう彼らは支援を始めてくれたのです。まだ生まれて間もない小さな群れが、早い段階から宣教に励んでいたと分かります。素晴らしいことですよね。その後も彼らは支援してくれました。16節にこうあります。

16テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。 

 このようにあります。とはいえ、ピリピの教会は、規模も小さく、経済的に決して裕福ではなかったのです。第二コリント8:2にて、パウロはピリピ教会を含むマケドニア地方の教会からの支援について触れています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました」と。

「極度の貧しさ」という言葉が印象的です。ただ貧しいのではないのです。とても貧しいのです。極度の貧しさです。そんな状況なのに、彼らは喜びにあふれ、貧しくとも恵みがあふれ出て、宣教の支援がなされたのです。とても教えられます。


 教会は規模だけで価値を量ってはなりません。そこに、あふれ出て与えようとする信仰があるかどうかは、教会の元気度を測るバロメータかも知れません。内側ばかり、自分ばかりを見るのではなく、外に向かい、隣人に向かってしっかり目を向け、豊かに与え分かち合っていく信仰です。恵みが「あふれる」と、当然に中には収まりきらずに、外に向かってあふれ出ていくのです。そして、そのような群れは、ますます豊かにされ成長していくのです。それはなぜでしょうか?みことばにあるように、霊的な祝福を受けるからです。

17私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。  

 以前の訳(新改訳 第三版)では、「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」と訳されていました。

霊的な銀行口座にどんどん貯金が加えられていきます。霊的な祝福が増し加わるのです。

支援してくれた分をはるかに超える霊的な祝福です。10節にあるように、パウロはピリピの人々の献げる思いが戻ってきたことをとても喜びました。しかし、物資そのものを喜んだわけではありませんでしたね。ピリピの人々の思いや神に仕える心を喜んだのです。

そして、彼らの信仰がそこによく見えて、彼らが霊的に祝福されることが嬉しくて仕方なかったのです!! ですから、パウロの喜びは自分に関する喜びではありません。ピリピのクリスチャンたちの霊的祝福を喜ぶものでした。私たちはこれをこそ、喜ぶ者でありたいのです。人格的、霊的に未熟な時は、自分のことで精一杯ではないでしょうか。自分は上手くやれるだろうか。恵まれるだろうか。体調はどうだろうか。もちろん、自分のことも大事にすべきで、しっかりケアすべきであります。

けれども、私たちが今生かされている理由は、私のために死んでくださったイエス様のみこころに生きるようになるためではないでしょうか。例えば、キャンプに行くという時に、信仰面で未熟だった場合どうでしょう。自分は楽しめるだろうか、友だちが出来るだろうか、体調が悪くならないだろうかと自分の心配ばかりになります。しかし、成長していき、信仰面でも先輩になっていく時に変わっていきます。どうしたら、後輩たちが楽しく過ごせるだろうか。あの子は体調大丈夫だろうか、孤独にならないだろうかと気遣う姿が増えるのです。さらにスタッフになっていくと、自分の事よりも、参加する子たちの救いや成長、安全面などが最大の関心事になっていくのです。そのような成長した姿は、関わってきたすべての者にとって、何よりの喜び、何よりの神様からのご褒美ではないでしょうか。

私も若い頃に、キャンプ委員としてのご奉仕が面倒だ、しんどいと思ったことがあります。準備も忙しく、肉体的にも負担は小さくありません。それも基本的に無報酬のボランティア。何のためにこんなに・・・との思いを持ったことがあります。しかし、キャンプを通して成長していく若者たちの姿を見て、変えられた姿を見て、それが私たちへの大きなご褒美、喜びだと教えられたのです。「受ける者から与える者へ」と成長している姿、そこに関わらせていただいた喜び、感動。それは何にも代えられません。彼らの信仰の成長が嬉しいのです。実は、これが牧会者や霊的な指導をする者の最大の喜びではないでしょうか。いや、すべてのキリスト者の喜びであって欲しいのです。

 

私たちは、どうでしょうか。隣人の信仰の成長、霊的祝福を熱心に求めているでしょうか。それよりも、自分が傷つくことを恐れ、面倒なことを避けてばかりはいないでしょうか。私たちは人の霊的な実りのために何が出来るかをいつでも大事にしたいのです。自己憐憫や自己中心の罠に陥ることなく、目の前の人々の救いと祝福を何よりも求める者でありたいのです。なぜなら、そのような人の霊的口座には、たくさんの実りが貯金されていくからです。

パウロの喜びの基準もそこにありました。パウロは、ピリピのクリスチャンたちが、あふれるばかりの豊かな実を実らせることを、何よりも望んでいたのです。みことばに心を開き続けていたいのです。自分が何のために今この時に生かされ、その場に遣わされているのか。先日の礼拝の招きのことばの中で、子どものロバの話があり、そのロバについて、「主がお入り用なのです」との言葉が読まれていましたね。私たちも小さな子ロバのような存在かも知れません。しかし、主がお入り用なのです。ここに立っていきましょう。


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