*** 4/1(水)祈祷会 説教概略 ***
受難週です。十字架の主の御名を賛美します。
よく上手に財を使える人、大胆に投資できる人のところに富は集まって来ると言います。それはとても面白いことです。「お金は使えばなくなる」と考えがちですが、聖書のタラントの例えにもあるように、大胆に投資できる人にはさらに与えられることは不思議なことです。「金は天下の回り物」という諺もありますね。
私たちの群れも少しずつではありますが、様々な宣教の働きを支援して参りました。そして、それに伴い教会が成長してきていることは不思議で、とても嬉しいことです。実に、喜んで自分を献げ、与える者となる時、主は豊かに祝福し、霊的な実りを増し加えて下さるのです。ともに教えられましょう。
14節 それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。
ここでパウロは、ピリピの兄姉たちが同労者としてともに歩んで来たことを振り返っています。特に、私とよく「苦難を分け合ってくれました」と感謝の気持ちを表しています。原語のニュアンスを直訳的に表現するなら、「それにしても、あなたがたはよくやってくれました。私の苦難をともに担うという点において」とも訳せるかと思います。
「分け合う」ということばは、コイノーニアの派生語でして「ともに担う」と訳してもいいかと思います。パウロは孤独ではなかったのです。ピリピ教会の兄姉が苦難をともに担って歩んで来てくれたからです。具体的な助けと支援についても回顧していますね。15節です。
15節 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。
ここから何が分かるでしょうか。ピリピの教会は、パウロが福音を伝え始めた頃、まだ他に支援があまりない初期から、その働きを具体的に支援してきた教会だったのです。
まさに「同労の仲間」でした。ここには「私がマケドニアを出たときに」とありますが、マケドニアとはピリピを含む地方のことです。ピリピ地方から次の宣教地に移って行った際には、もう彼らは支援を始めてくれたのです。まだ生まれて間もない小さな群れが、早い段階から宣教に励んでいたと分かります。素晴らしいことですよね。その後も彼らは支援してくれました。16節にこうあります。
16節 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。
このようにあります。とはいえ、ピリピの教会は、規模も小さく、経済的に決して裕福ではなかったのです。第二コリント8:2にて、パウロはピリピ教会を含むマケドニア地方の教会からの支援について触れています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました」と。
「極度の貧しさ」という言葉が印象的です。ただ貧しいのではないのです。とても貧しいのです。極度の貧しさです。そんな状況なのに、彼らは喜びにあふれ、貧しくとも恵みがあふれ出て、宣教の支援がなされたのです。とても教えられます。
教会は規模だけで価値を量ってはなりません。そこに、あふれ出て与えようとする信仰があるかどうかは、教会の元気度を測るバロメータかも知れません。内側ばかり、自分ばかりを見るのではなく、外に向かい、隣人に向かってしっかり目を向け、豊かに与え分かち合っていく信仰です。恵みが「あふれる」と、当然に中には収まりきらずに、外に向かってあふれ出ていくのです。そして、そのような群れは、ますます豊かにされ成長していくのです。それはなぜでしょうか?みことばにあるように、霊的な祝福を受けるからです。
17節 私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。
以前の訳(新改訳 第三版)では、「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」と訳されていました。
私たちは、どうでしょうか。隣人の信仰の成長、霊的祝福を熱心に求めているでしょうか。それよりも、自分が傷つくことを恐れ、面倒なことを避けてばかりはいないでしょうか。私たちは人の霊的な実りのために何が出来るかをいつでも大事にしたいのです。自己憐憫や自己中心の罠に陥ることなく、目の前の人々の救いと祝福を何よりも求める者でありたいのです。なぜなら、そのような人の霊的口座には、たくさんの実りが貯金されていくからです。
パウロの喜びの基準もそこにありました。パウロは、ピリピのクリスチャンたちが、あふれるばかりの豊かな実を実らせることを、何よりも望んでいたのです。みことばに心を開き続けていたいのです。自分が何のために今この時に生かされ、その場に遣わされているのか。先日の礼拝の招きのことばの中で、子どものロバの話があり、そのロバについて、「主がお入り用なのです」との言葉が読まれていましたね。私たちも小さな子ロバのような存在かも知れません。しかし、主がお入り用なのです。ここに立っていきましょう。
