*** 9/2(水)祈祷会 説教概略 ***
先週の今日は病院のベッドの上で、しんどい時間でもありましたが、イエス様の十字架と皆さんの祈りを思い出しました。私のためにこれ以上に苦しい思いをして下さった主イエス様です。苦しみの中でも感謝が生まれました。また、皆さんが私のために祈っていて下さり、一人ではないと思えて心強かったです。
日曜礼拝でも「祈って備える」ことの大切さを教えられましたね。みことばを聞いて信じ、そして心を一つにして祈ることで整えられていく。これが、何が起ころうとも、冷静に主にあって受け止める秘訣であることを教えられました。今日もみことばに聞き、交わり、ともに祈るためにここにいます。
さて、詩篇12篇です。この詩篇の詳しい背景は不明ですが、内容は明確で「ことば」をテーマとしています。私たちはことば一つで生かされ、また、ことば一つで倒れてしまう可能性もある。「ペンは剣より強し」との諺もあります。ことばにはその力と重みがありますよね。
ここでは、二種類のことばが語られています。①一つは、罪人の口から出る「偽りと傲慢に満ちたことば」。人を傷つけ滅ぼすことばがこの世には存在します。②もう一つは、混じりけのない「純粋で真実な神のことば」。人を生かすことばです。私たちはこの汚れた闇の世に生きる者です。だからこそ、人を生かす神の純粋なことばから励ましをいただきながら歩む必要があるのです。
1.罪深い人のことば
まず1-3節から教えられます。ここでは敬虔な者も誠実な者もいなくなった悲惨な状況を嘆いています。特に2節に注目していただきたい。
2節 人は互いにむなしいことを話し へつらいの唇と 二心で話します。
2節の「むなしいこと」とは、単に中身のないくだらない話ではありません。むしろ、意図的に相手をだまし、自分を有利にすることばです。「へつらいの唇」は、饒舌にお世辞や「ごますり」を話すようなことです。本心では思っていないことを、自分を有利にするために平気で語るのです。簡単に言えば偽り。「二心」とはまさにそのことで、本心とことばの間に一致がないのです。作者を初め、多くの人々は、これらの罪深いことばでひどく傷つけられていたのでしょう。ことばの暴力ですよね。ことばの暴力って厄介だと思いませんか。肉体的な暴力は、分かりやすいので警察も動いてくれるでしょう。でも、ことばの暴力は非常に難しい。上辺はキレイな敬語を使いながら、内容はとんでもないことを語ることも出来てしまう。ことばが巧いことによって、一方的にこちらが悪者にされることさえあるでしょう。
また、罪人のことばには「傲慢さ」があります。ことばを使って相手を騙し、惑わし、自分を大きく見せようとするのです。少しでも他の人より上に立とうとする。マウントを取りたい。4節に、その傲慢さがよく表現されています。
4節 彼らはこう言っています。「われらはこの舌で勝つことができる。 この唇はわれらのものだ。 だれが われらの主人なのか。」
「この舌があれば、この唇があれば、我らは誰にでも勝てる」と思う人々がいたのでしょう。いつの時代にも、口が上手い人、ことば巧みな人がいますよね。そして、ここではただ上手いのではなく、「この唇はわれらのものだ。
だれが われらの主人なのか」とあり、神様を無視していることがよく分かります。ですから、3節にあるように、主が へつらいの唇と傲慢の舌を
ことごとく断ち切ってくださいますように。と作者は祈るのです。
もしかしたら今、皆さんの頭には、ことば巧みな誰かの顔が思い浮かんでいるかも知れません。そして、私のことではないと思っているかも知れません。自分は「ことばの人ではない」と、モーセのように言うかも知れません。でも、自分の利益を最優先するために、ことばを選んでいないでしょうか。誰かを助けるために、誰かを救うために言いにくい真実を語る勇気を持っているでしょうか。ただ主のことばをまっすぐに伝える熱心さを大事にしているでしょうか。ついつい、自分を守る発言、自分の利益につながることば中心になっていることもある私たちではないかと問われます。
私たちも主の前にへりくだりたいのです。そして、私たち主キリストにつく者は、「この口は我らのものだ」と言わず、「主が与えてくださったこの口で、主が喜ばれることばを語ろう」と告白したいのです。この口をくださったのは主なのですから!出エジ4章11節にこうあります。主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。
2. 神のことば
5-8節に目を向けましょう。5節に主の応答のことばがあります。これは、1節の「主よ お救いください」との救いを求める声に対する、神様の応答です。主に救いを求める者は、必ず救いを得ます。5節の中で、神様ご自身が「わたしは立ち上がる」と語っておられます。さらに、「救いに入れよう」とも言われます。ところが、もし、これらのことばが、4節までにあったような、へつらいの唇から出たむなしい話、二心によるものであったならどうでしょうか。全く信用できず、期待を裏切られます。余計に傷つくだけでしょう。中身のない都合の良いことばは、かえって人を絶望させます。
ですから、主のことばが混ざり物のない真実なものであることが重要なのです。信じる者が恥を見ることのないことば!失望させられることのないことばです!6節をご覧ください。6節 主のことばは 混じり気のないことば。
土の炉で七度試され 純化された銀。
ここが重要な「カギ」となるみことばです。銀は元々、別の様々な物質と混ざった状態の石として切り出されます。そこから純粋な銀を取り出すために、炉の中で高温によって溶かし、銀以外の物を取り除いていくのです。それを繰り返すことで、純粋な銀にしていきます。ここでは「七度試され」とあります。ただし、七度とは実際の回数ではなく、「完全数」と言いまして、この場合だと、不純物が完全になくなるまでこの作業を繰り返すという意味です。
ですから、主のことばこそは、徹底して不純な思いや考えを取り除いたことば。汚れが一切なく、悪意も一切ない、愛と真実に満ちた純粋なことばなのです。人のことばではこうはいきません。どんなに親切なことばでも、見返りを期待し、人から良く思われたいとの不純物が混ざります。世界中どこを探しても、あなたへの純粋な愛だけで語られていることばは、ここ(聖書)にしかないのです。このことばを語る主だからこそ、私たちを確かに守ることができるのです。この真理のみことばによって、永遠に私たちを保ってくださると7節で語られています。
そして、8節にあるように、今の世は、卑しい汚れたことが尊ばれ、悪い者が至るところで自由にしている世界です。私たちは唇の汚れたこの世界に生まれ、日々愛のない偽りのことばを聞いています。しかし、だからこそ、混じりけのない純粋な主のことばを信じていけることは、本当に幸いです。徹底して罪や汚れ、悪を排除した主のことばを、私たちは手にしているのです。いつでもこのみことばの影響下に自分を置けいていこうではありませんか。
私たちのことばには、どのような混じりけがあるでしょうか。自己中心なことば、自分を守るばかりのことば、人をさばくことば、不平不満・・・。しかし、私たちは主のものです。人を安心させ、人をキリストに近づけ、人を育てることばを語る者でありたいのです。世の汚れたことばに自分を浸さず、主の愛と真実なことば、混じりけのないまっすぐなことに自分を浸しましょう。ぜひ、主のみことばに生きる者となりましょう。神のみことばをただ聞くだけで終わらず、自分の口から出ることばにしていきたいのです。