*** 11/4(水)祈祷会 説教概略 ***
しばらく詩篇から教えられてきましたが、少し小休止をして「主の祈り」について、何回かに分けて教えられたいと思います。毎週のように、あるいは人によっては日々祈っているかと思われる「主の祈り」ですが、ともすると単なる「慣習」のようになってしまいがちです。そしてその意味や、その価値を見失ってしまうなら残念ですよね。
マルティン・ルターは主の祈りについてこう言っています。「いかなる場合も、キリスト者が正しく『主の祈り』を祈るなら、その祈りは十分以上であると、私は確信する」と。短い祈りですが、福音的な内容がまとめられており、祈りとして必要な要素が十分にあり、むしろ「十分以上」だとルターは評価しています。興味深いところです。ただし、「正しく祈るなら」と断ってあるところがポイントです。みことばから教えられましょう。
6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
イエス様は、この少し前、人に見せるために祈ることをやめるように教えています。祈りの長さや言葉数の多さに、心を向けるのをやめなさいということです。そこでイエス様は、9節で「ですから、こう祈りなさい」と模範を示されたのです。これが「主の祈り」です。主の祈りは、短かいシンプルな祈りでありながら、福音全体の要約であるかのようです。
そして、「主の祈り」という名称ですが、日本語の紛らわしいところです。この箇所から分かるように「主の祈り」とは、「主への祈り」という意味ではなく、正しくは「主が弟子に教えられた祈り」という意味なのですよね。私たちの教会の礼拝では、基本的にその説明がなされていますよね。そして、あなたがたは「こう祈りなさい」とあります。ここは現在時制の命令形です。そこには「継続」の意味がありまして、一回きりではなく、いつもこの祈りを続けなさいという意図があります。
ただし、この「祈り」は覚えて祈るために、呪文のような形式的な祈りとなる危険があることも確かですよね。何も考えず、何も味合わず、ただことばを紡いでしまうことがあるのではないでしょうか。儀式の一つのようにして。しかし、神は心をご覧になる方です。意味を味わうことなしに形式的に唱えられるならば神様との交わりが失われます。結果、いのちが失われてしまいます。ですから、主が教えて下さっている祈りの本質を理解し、心を込めて祈りたいのです。同じことばを祈るにしても、その一言一句の中で、主との交わりを豊かに楽しみ、神様のみこころに心が向けられたいと願います。
1.天にいます私たちの父よ
さて、祈りの最初は神様への呼びかけです。まず、「天にいます」「天にまします」との言い回しは、天を住まいとされる偉大な神、力ある全能の神様を意識させてくれます。世界中のすべての人の上にあるお方であることに思いを向けたいのです。あらゆるものの上に立つお方なのです。
そのような全宇宙の支配者なる偉大な神様を、「父」と呼ぶようにとイエス様は教えて下さったのです。弟子たちは驚いたかも知れません。神様を「父」と呼んじゃっていいの?と。もちろん、神様のことを「父」と考えるあり方は、必ずしも新しくはありません。でも、イエス様が教えられたこの「父」ということばは、「お父上」といった硬い呼びかけではなく、とても親密なアラム語の表現です。「アバ、父よ」という表現がありますが、この「アバ」ということばは、小さな子が心から信頼しているお父さんに向かって、「パパ」「お父ちゃん」と呼びかける時に使われます。全知全能なる神様を、深い親しみの中で、「おとうちゃん」「パパ」と呼ぶことができるのです。なんという親密さ、なんという恵みでしょうか。
もし、私たちがキリストの十字架によって罪赦されていなかったら、神の子とされていなかったなら、神様を「アバ、父よ」と呼ぶことはできなかったのです。もちろん実際の祈りの時に、「天にまします我らのパパ」と呼びましょうということではありません(笑)。尊敬をも込めて「天のお父さま」「父なる神さま」と呼びつつも、そこに個人的な親しみと信頼があることを覚えて祈りたいのです。
そしてここには「私たちの」ということばがあります。イエス様だけが天の父と呼ぶのではなく、あなたがたもわたしと一緒に「私たちの父よ」と祈りなさいと招かれたのです。この祈りは孤独な祈りではないこともここから分かりますね。パリサイ派の人々が、「私だ、私こそが」と誰の祈りが一番かを競い合っている中、「我らの父よ」と祈るべきだと教えられたのです。競争も奪い合いもありません。お互いの存在を尊び、世界中のキリスト者と心を合わせて一緒に祈るのです。
2.御名が聖なるものとされますように
私たちが祈っている主の祈りは、「願わくは、御名があがめられますように」と祈っています。ただ現在の新改訳2017年版では、「御名が聖なるものとされますように」と訳されています。これは原語の訳をより直訳的に訳し変えたもので、本来の意味はこちらが近いでしょう。そのため、主の祈りを改訂している教会もあります。
ただ、慣れ親しみ暗唱しているものですので、変えるデメリットも小さくありません。ですから、その意味を理解しつつ、今まで通りで祈るのでも何ら差し支えないかなとも思います。さて、その意味です。ここで大切なのは、神の御名が聖なるものとして他のものから明らかに区別され(つまり聖別され)、大切に扱われるようにという祈りだということです。
ただし、勘違いしてはいけない点があります。人間が神様の御名を聖なるものとした結果、初めて聖なるものとされるという意味ではありません。神様は人間の認識によって聖くなったり、汚れたりするお方ではありません。元々聖なるお名前なのです。それを私たちが正しく認識して、主の御名を汚す者にならないように、全世界において聖なる御名を、きちんと聖なるものとしてあがめて生きますようにとの祈りです。
もっと言うならば、世界中のあらゆるところで神様のお名前が聖なるものと理解され、あがめられ、賛美されますようにと願う祈りでもあります。それは福音が全世界に広がっていく願いともリンクしますよね。全世界のすべての口が主を賛美し、主の前にひざまずき、賛美し、礼拝するようになることを願うのです。私たちは、それを真剣に望んでいるでしょうか。決まり文句のように「御名があがめられますように」と唱えてはいないでしょうか。心から願う祈り、叫ぶような祈りでありたい。
今日は、主の祈りの一部を学びました。もちろん、これしか祈ってはいけないとか、これがすべてだということではありません。しかし、パリサイ人が長い祈り、綺麗にことばを並べ立てる祈りに終始し、中身が失われていたことに主は胸を痛められたのです。
大切なことを大切に出来るように。そのために主が教えて下さったのが「主の祈り」なのです。私たちが「天にまします我らの父よ」と祈るとき、深い親しみを込めつつ、すべての上にある天におられる偉大な力ある神様であることを覚えます。「我らの父よ」とあるように、世界中のすべての人の父であることをも意識します。そして、御名が聖なるものとしてあがめられるようにと。世界中で、この御名が聖なるものとしてあがめられるように。世界中に福音が伝えられ、すべての者がひざまずいて主をあがめるようにと祈るのです。私たちはルールで一体になるのではありません。強いられてでも、マニュアル本でもない。みことばによってです。そして、みことばが示すように、主が教えられたこの祈りを、世界中のすべてのクリスチャンが心を合わせて一緒に祈ることによってでしょう。
