*** 9/20(日)主日礼拝 説教概略 ***
以前、ある牧師が証しをして下さいました。大きな病と闘病している信徒がいらっしゃる。牧師はとても可哀そうで、「つらいですね」と声をかけたそうです。すると、この方は、「いいえ、こうした病がある方が私には良いのです。それによって神様を頼る者になれますから」と言われ、頭が下がる思いだったと。ひたすら癒やしばかり考える自分の信仰との違いを感じたのです。
病も様々な苦しみも出来れば避けたいのが人情です。私も痛いのは大嫌いです。でも、なぜか神様は必ず通らせなさる。そして、後から振り返ると、それらの経験によって、新しい恵みをいただいたことに気づかされることがあります。誠実にまっすぐ歩んでいても、あらゆるところから苦しみはやってきます。避けては通れない。ならば、嫌だとわめいて生きるだけでなく、向き合い方を学び、そこに意味を見出せる方が幸いですよね。
私たちの周囲でも、闘病されている方、苦労なさっている方は多くありますよね。肉体だけでなく、心も消耗しやすい時代です。ですから、病や苦しみの向き合い方、そこから得られるものについて、みことばから教えられたいのです。今日の詩篇のみことばは、「苦しみを通して神の教えの尊さ」を知ることです。愛に満ちた主のおことばに聞きましょう。
1.苦しみを通る前に姿
ここには、苦しみを通る前と通った後、Before & After が語られています。まず、苦しみを通る前の日々を振り返って詩人はこう語っています。67節です。
67節 苦しみにあう前には私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります。
ここにある「迷い出る」ということばは、「騙される」「惑わされる」という意味もあります。偽りに騙され、惑わされた結果、迷い出て道を踏み外していくという面がありますよね。それは、真実な良い教えを知らないゆえです。神の真実なことばを知らない生活は、様々な世から受ける偽りに惑わされて、迷い出てしまうのです。
ただ、その時は自分では分からないことも多い。正しいと思い込んでおり、偽りを真実だと信じこんでいる。自分に様々な付加価値を付けないと、そのままでは価値がないんだと思い込まされ、我を忘れて頑張るのです。多くの富や名誉を手にすることがすべてだと信じさせられ、勝ち組・負け組というレッテルを鵜呑みにするのです。
なんとなくうまくいく日々というのは、案外恐ろしいものです。ハレスビーはその著書『みつばさのもとに』において言います。「順調な日々において、霊的生命力を失わない人はわずかです」と。健康で学びも仕事も順調、そこそこ平和。それは一見幸せに思われます。しかし、神様に頼らなくても大丈夫と思える。それでいつの間にか神の道から離れ、霊的に渇いた状態になっているのです。まさに、苦しみにあう前に迷い出ていたという現実です。
しかし、67節後半には「今は あなたのみことばを守ります」と告白しています。
このように変えられたのは何故でしょうか。
それを変えたキッカケが「苦しみ」との出会いだったのです。
2.苦しみとの出会いを通して
71節で、詩人は過去の「苦しみ」の経験を振り返ってこう告白しています。
71節 苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。
「苦しみにあったことは 幸せでした」って、簡単には言えないですよね。理屈でわかっても、思いがついていくのに時間がかかります。ただ、すぐに言えなくていいと思うのです。なぜなら、祈りの格闘のプロセスがとても大事だからです。嘆きや叫びも信頼のうちに主に祈れる幸いがあります。「主よ、いつまでですか」と訴える祈りも「信仰による」と祈祷会では学んだところでした。
イエス様のゲツセマネの園での苦しみの祈りも、最初は「この苦しみの杯を取り除いてください」と祈っていたわけです。聖書によれば、少なくとも弟子たちが一時間も眠り込んでしまうほど、イエス様は祈られ、しかもそれを三度になさっています。そうやって時間をかけて父に祈り続ける中で、やがて「私の願いではなく、あなたのみこころをなさってください」との告白に辿り着いたのではないでしょうか。
しかし、こうして、苦しみも神様の良きご計画の中で与えられている、そのことに気づいていくと、少しずつ見える景色が変化していくのです。
「まばたきの詩人」と呼ばれる水野源三さんをご存知でしょうか。水野さんは9歳の時に病気で、脳性マヒとなり、目と耳を除く多くの体の機能を失ってしまい、まばたきで言葉を紡ぎ出すしかなかったのですね。話せない、動けない、書けない。そこで、お母さんは50音の文字表を指差し、彼がまばたきで意思表示をして、それでようやく対話が出来ました。彼は3年後、聖書を食い入るように読むようになり、やがてイエス様の救いにあずかりました。そして、18歳からまばたきで詩を作り始めたのです。彼の詩にこういう詩があります。
「もしも私が苦しまなかったら、 神さまの愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、
神さまの愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、 神さまの愛は現れなかった。」
イエス様が苦しまれなかったなら、神の愛が現れることもなく、苦しみを知らない人には、愛を伝えることも難しい。そして水野さん自身も、自分のこの苦しみがなかったなら、神様の愛を知らないままだったと言うのです。 確かに、イエス様が何の苦しみも通らず、ただ圧倒的な神の力で悪者をなぎ倒し、何の苦労もなく、「あなたのすべての罪は赦された」と言われても、私たちはあまり心が動かないでしょう。聖なる神の御子が、わざわざ人となって弱くなり、私たちのためにひどく痛み苦しんでくださった。ゆえに、その十字架の愛が伝わります。その救いに価値を見出すのです。
水野さんの作品には、「悲しみよ ありがとう」という詩もある。前半では、「悲しみが来なかったら、今どうなっていたか?」と語る。後半では、悲しみであるお前こそが、この世にはない大きな喜びと平安に満ちた、キリストのもとに連れて来てくれたのだ。悲しみが自分をこんなに素晴らしいイエス様のもとに連れて来てくれた。だから、「ありがとう」と感謝を語るのです。
彼は、悲しみを乗り越えたから喜んだのではありません。「悲しみ」そのものが、キリストにある喜びと平安へと連れて来てくれたのだ、だからありがとうと言うのです。驚かされますね。
この詩篇作者もきっと、日々祈りの苦闘を通りながら、ようやくここまで導かれたのでしょう。苦しみを通して、自分の高慢さを知り、その弱さを知り、神のいつくしみ深さを知ったのです。そして、神のみことばの尊さを知ったゆえです。 繰り返しますが、最初からこう言えなくていい。それは不信仰ではありません。最初は、神様にぶつかり、嘆き悲しみを訴え、助けと救いを求め、主に叫んでいていい。でも、それだけでは終わらせない主です!その先には、「この苦しみは、私にとって幸いでした」と言える未来があると知っていただきたいのです。
3.主は良いお方
こうして作者は、神様がいつくしみ深く、良いものをくださるお方だと、告白する者へと変えられていきました。
65節 主よ あなたはみことばのとおりに あなたのしもべに良くしてくださいました。
68節にもこうあります。
68節 あなたはいつくしみ深く良くしてくださるお方です。どうかあなたのおきてを私に教えてください。
実は、71節にあった「幸せでした」ということばは、「Good(良い)」ということばです。それは善なること、益を生む良いこと。ですから、感覚的に「幸せだ~」「Happyです!」ということではなく、自分を確かに良い者にするために、主が良きものをくださったのだと言っているのです。そこを踏まえると、これらの65節や68節で、「私に良くしてくださる神様」という告白につながりますよね。
私自身の本音も、「出来るだけ楽をしたい」、「平穏無事に生きたい」そういう思いがあります。しかし、主はその願いの通りには決してされません。様々な挫折や痛みの経験がありました。すぐにでもお返ししたい杯もありました。でも、それらの経験は私の中に「傷」を残しました。でも、ある時気づきました。その傷のあるところには、神のみことばも愛もやさしさも、すごく入って来ると。そして、それゆえに、その傷から今までなら出なかった「やさしさ」が外に向かって出ていることに。かつての自分なら決して出なかったはずの「やさしさ」「あわれみ」です。やはり、主は良いお方なのだと、思わされるのです。
72節をご覧ください。
72節 あなたの御口のみおしえは私にとって幾千もの金銀にまさります。
私たちのこの社会なら、聖書はいつでもどこでも読めます。スマホでも読める時代ですから。でも、いつでもどこでも読めることと、そこに語られている恵みを読めることは同じではありません。みことばの価値を見出せないままで、いくら読んでも、乾いたパンをお腹に入れているかのように、味気なく糧にもならない。
目の前にあるこの聖書の真の価値が分かるために、私たちは様々な痛みや悲しみも通る必要があるのだと気づかされるのです。神の愛を知り、神の愛を伝える者となるために、傷つけられることも意味があるのです。
主はあなたに語っておられます。
