これら1-2節を読むと、繰り返し語られているあることばに気づきます。「いつまでですか」という問いかけです。皆さんは、「いつまで耐えなければならないのか」、「いつまで待てばいいのか」と思う瞬間はあるでしょうか。耐え難い苦痛がある時ほど、厳しい試練が続く時ほど、「いつまでなのですか」と、神様にすがるように祈るのではないでしょうか。しかもここでは、1度ではない。4度も繰り返されているのです。それは苦しさのあまり、もはや「いつまでですか」としか祈りようがなくなっているからではないでしょうか。ダビデは、長引く辛い試練の日々において、ひどい疲れと弱さを覚えていたのでしょう。それゆえに、いつまでこの辛い状況を耐えなければならないのかと問いかけているのです。
ここで、とても重要なことを教えられます。神様への信仰とは、こうした苦しみの中で叫び訴えることを決して否定ないということです。「主よ、いつまであなたは顔を隠しておられるのですか」、「主よ、いつまでこんなに思い悩まないといけないのですか」と、訴えることは決して不信仰ではないのです。とても忠実な信仰者ダビデであっても、このように祈っているのですから!そして、このように祈ることまた、信仰によるものです。
そう思うと、慰められるのではないでしょうか。私たちは良いことだけを祈るのではありません。感謝や賛美だけを祈るのではありません。嘆きや悲しみ、痛み苦しみ、助けを叫び求めて良いのです。それさえも神様に訴えることが出来るのが、キリスト信仰なのです。そして、主は、私たちのそのような必死の訴えを決して見下したり、拒んだりはしません。むしろ、求めないことをこそ悲しまれる神様なのですから。
同時に、なぜ、ダビデは苦しい時でも祈ることをやめないのでしょうか。なぜダビデは、「いつまでですか」と神に向かって叫べるのでしょうか。それは、神に期待しているからなのです。何も出来ない相手に、「いつまでですか」と言うことはあり得ないでしょう。主には出来るから。主はその時を定めておられると信じているから、「いつまでですか」と訴えるのです。
ですから、この「いつまでですか」も、信仰から出ているのです。
さて、ダビデは「いつまでですか」の叫びに続き、答えてくださいと求め、訴えます。
3節 私に目を注ぎ 私に答えてください。私の神 主よ。私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。 4節 「彼に勝った」と 私の敵が言わないように。私がぐらつくことを 逆らう者が喜ばないように。
苦しみの中で叫ぶ自分に目を注いで、「答えてください」と祈ります。ただ見守るだけでなく、具体的に求めに応じて助けてくださいと祈るのです。「目を明るくしてください」とは、目に光を回復させてくださいとの祈りだと考えられます。
目は分かりやすいもので、絶望している人は目に光がなく、死んだようになっているでしょう。 ダビデは、このまま弱り果て、死んでしまわないように、その希望を見せて欲しいと願うのです。敵対する者の勝利宣言ではなく、主の勝利をこの目に見せて欲しいので、こう祈るのです。何よりも、信じる者である自分が「ぐらついて」しまうことで、それを見た逆らうその者が喜ぶなら、神様の御名そのものが軽んじられてしまいます。そうならないように!だから、主を信じる自分が、倒れてしまわないように主よ、あなたの力を現わしてくださいと求めます。
このように、最初は「いつまでですか」という嘆きとも思われる訴えから始まりました。しかし、それでも主なる神様に嘆き、問いかけ、求め続けていく時に、その祈りはいつの間にか変えられていきます。5節です。
5節 私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。
ダビデは苦しみのただ中で、朽ちることのない主の恵みを求めました。そして、求めるだけでなく、「拠り頼みます」とその信頼を告白するに至りました。主を求め、主を信頼する者は変えられていきます。しかし、よく考えてみると、具体的に何かが変わったわけではないのです。敵がいなくなったとは語られておらず、また、問題が解決したとも言われていないのです。おそらく、依然として敵があり、状況自体は何も変わっていなかったのでしょう。それでもダビデは言いました。「私はあなたの恵みに拠り頼みます」と。
ここに私たちが学び信仰があると言えるでしょう。状況が良くなったから「ハレルヤ」と賛美することは誰でも出来ます。しかし、状況が全く変わっていないにも関わらず、主に信頼する者は、その救いの恵みの大きさに気づき、不思議な喜びが与えられていくのです。信仰とは、状況が変わったから安心することだけではありません。状況がまだ変わらなくても、「それでも私はあなたに拠り頼みます」と言えることです。
自分の感情を第一にするのではありません。感情が思うようについて来ないその時にも、主にありのままの思いを打ち明け、このお方に目を注いでいくのです。もちろん、感情が不要なわけではなく、それも主が与えてくださった大切なものです。ダビデも悲しみや嘆きの感情の中で主を呼び求めました。しかし、感情だけを土台にして生きるなら、私たちはそのたびに揺れ動いてしまいます。
だからダビデは、自分の感情を神に明け渡しながら、自分の目をもう一度、神の恵みに向けるのです。そして、感情をそのままに主に祈りながらも、最後は感情よりも神の真実に、その恵みにしっかりと目を留める中に、平安が与えられていきます。主なる神様はご自身の民を危険から救い出し、最終的にはイエス・キリストを通して罪とその滅びからの確かに救い出してくださるのです。今お話ししたように、状況は依然として変わっていないのです。しかし、今や主の恵みに対して心の目が開かれ、その目には光が満ちたようです。神の恵みに対する信頼と神への喜びの歌へと変わりました。
6節 私は主に 歌を歌います。主が 私に良くしてくださいましたから。
