東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: へブル10章32-39節「約束のものに向かって」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/09/13

へブル10章32-39節「約束のものに向かって」

*** 9/13(日)主日礼拝 説教概略 ***

 何のために生きるのか。どこに向かって生きるのか。なぜ、学ぶのか。なぜ、しんどい訓練を受けるのか。何のために耐え忍ぶか。それらが見えているのと、見えていないのでは、生きる意欲が大きく変化することでしょう。教会に集い、みことばに学び、神のみこころを知っていくことは、まさに人が何のために生きるのか、どこに向かいどのように生きるのかを知るための道なのです。



 本日のみことばには、様々な戦いがあるときでも、確かな約束から目を離さずに、忍耐深く信じていくならば、イエス様によるとこしえのいのちの約束を豊かに受けることを教えています。その約束は、「いつまでも残る財産」、「大きな報い」であると語られています。それらは、この地上で得られる財産、名誉、称賛とは比べ物にならない価値あるものです。その圧倒的な違いは「失われない」ということです。この約束のものは朽ちることなく、奪われることなく、永遠に残る宝です。私たちは、様々な弱さを通る時にも、主がくださった約束のものに向かって歩むのです。クリスチャンには、その中での勝利の道があります。


1.主のみわざを思い起こすこと  

まず著者は、信じた初めの日々を思い出させています。それはどのような日々でしょうか。

32  あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。 

 大きな喜びや癒やし、感動もあったでしょう。しかし、それは必ずしも楽なだけの道ではありませんでした。イエス様を信じたゆえに、様々な苦難、信仰の戦いを通ることもあるのです。特に、キリスト信仰に生きることは、理解できない人、反対する者たちからは、否定的に見られ、心ない言動を受けることもあるものですよね。それは傷つくし悲しいことです。

 やはりイエス様を信じようとする時、悪魔とその配下は快く思わない。洗礼を受けようとする時、信仰を一歩前に進める時、様々な誘惑や戦いが起こることを多くの人が経験しています。それでも救われた喜びがそれに勝り、喜びと感動のうちにそれらに耐えてきた読者たちでした。もちろん、そこには信じる者を支える主の力強い御手があったのです。 

 しかし、人は忘れてしまいます。平穏な日々にそれを忘れていくのです。その時の信仰、その時の感動、そこにあった人々の支えや神様の守り。時が経てば忘れていきます。ですからここで、まず「思い起こしなさい」と語られているのです。それは、記憶を呼び覚ますだけでなく、主がどのように支えて下さったのかに目を留め、「主はあの時支えて下さったように、今日も支えて下さる」と信じていく道です。これらは、「歩みを振り返って恵みを数えること」だと言い換えることが出来るでしょう。

 しばしば私たちが証しをすることの恵みは、他の人に主のみわざを広めるためだけでなく、自分自身も振り返って、主の恵みを味わい直すという大切な意義があるのですよね。主の恵みをいつでも思い起こす者でありたいのです。

 

2.報いから目を離さないこと  

 33-34節では、実際に彼らが受けた苦難について語られています。 

33  嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。34  あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。 

 ここにありますように、実際に読者たちは様々な辛い所を通りました。嘲られ、苦しめられ、見せ物にされました。中には悪いことをしていないのに、逮捕され牢に入れられる者もあった。自分の大切な仲間が、家族が、そういう目に遭うこともあった。自分が逮捕されるより辛いかも知れませんね。また、自分たちの持っている物や財産を奪われることもありました。では、こんな目に遭ってみんなさっさとイエス様を捨ててしまったのでしょうか。そうではありませんでした。34節の後半にこうあります。「また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました」と。彼らは、様々な苦しみさえも、信仰のゆえに喜んで受け入れていることが分かります。

 使徒の541節にもこうあります。「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」と。影響力のない人は迫害をあまり受けません。放っておいても何も起こらないからです。なので、御名のために辱められるに値する者とは、ある意味とても用いられている証拠でもあったのです。ただ、これらは世的には普通の価値観ではないですよね。クリスチャンは変人の集まりのように思えたかも知れません。

 ただ、なぜ、彼らはこれらの苦しみがあっても、喜びのうちに前進したのでしょう。それは、34節にあるように「いつまでも残るもの」に目を留め続けたからでした。ここにあるように「もっとすぐれた財産」であり、「いつまでも残る財産」が、信じる者には約束されていると信じていたからなのです

 これは次の11章につながるテーマでもあります。11章では、沢山の旧約の信仰者が登場します。彼らは、天にあるいつまでも残る財産、大いなる消えない報いに目を留めて、喜びをもって地上の生涯を全うした人々でした。逆にすぐに消え去るむなしい物にばかり心を奪われる人生は、不安定でむなしいものです。何のために苦労するのか分からないのです。だから、すぐに消え行くこの世の物に心を奪われて、確信をあっさり投げ捨ててはなりません。

35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。 

 ここでは、もっとすぐれた永遠の財産は、「大きな報い」と言い換えられています。そして、続く36節では「約束のもの」と語られていますね。キリスト者には約束されている素晴らしい報い、報酬があるのです。まことの信仰者は、苦しみの現実だけを見つめないのです!!その瞬間にも、苦しみの奥にある神のご計画、そして苦しみの先にあるこの約束と報いから目を離さないのです! 

 8月の入院中に、一人の男性看護師のことばにとても励まされたのです。痛い思いもしますし、多くの血も流れるわけです。そこにある希望は「この苦しみの先に良いものが待っているのか」ですよね。彼は実は同じ手術を数年前に受けた人でした。睡眠の質がひどかったが、鼻の手術を受けてから明らかに睡眠の質が良くなり、日中に眠くなくなったと。今は痛いですが、回復すれば生活が改善すると思いますよと励まして下さいました。苦しみだけでなく、その先にある神様からのご褒美をしっかりと見つめて歩んでいこうではありませんか。必ず報いがあります!

 

3.忍耐深く信じること  

 試練があっても試練だけを見て絶望するならば信仰は全く不要です。そこに神を全く見ていないし、その瞬間に、過去の多くの恵みも、将来にあるどんな良い約束に対しても、信仰の目を閉ざしてしまっているのです。しかし、35節にあったように、この救いのすばらしい確信を簡単に投げ捨ててはいけないのです。何があっても!何度つまずこうと、忍耐深く主求め続けていくのです。36節です。

36節 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。 

 もしかしたら「忍耐」と聞いて、私には無理だと思うかも知れません。確かにそれが人間的な忍耐、単なる我慢ならば、私たちには希望がないかも知れません。しかし、35節にあるように、キリストにある「確信を捨てずに歩み続ける」ことが「忍耐」なのです。とても辛いとき、苦しいときに、「イエス様なんていらない!」と投げ捨てないで、「イエス様、助けて」と叫ぶ者であり続けることです。嘆きも悲しみも、苦しみも叫びもあっていい。それを主なる神様に訴える者であることをやめないことです。あきらめずに主に祈り続けることです。それはただの我慢ではなく、苦しみの中にあって、そこに主イエス様の十字架を見つめる歩みです。試練のただ中におられる主に泣いて訴えることです。

そして、神様にその祈りや叫びは確かにすべて聞かれているのです。聞こえているのです。私たちの感覚では助けが遅いと思われます。でも、遅れているのではなく、私たちの考えよりもすぐれた主のご計画があるということなのです。

37節  「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。38節  わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」 

ある時は、待たされることを通して謙虚にされ、多くを学びます。待たされ苦しんだ分だけ、その恵みの大きさを実感できることがあります。だから、それを分かっている信仰者の中には、こう祈る人がいます。「成就されることよりも、祈り続けさせてください」と。祈りが答えられると必死の祈りをやめてしまう弱さを知る者のことばです。

ただ、私たちは必ず主の報いがあることを忘れてはならないと、今日教えられているのです。しかもその報いは大きい。ご褒美はとても大きくすぐれている。そして、失われない永遠のものであると、みことばは語るのです。どんなに辛い時も主の約束は決して破られることはありません!この苦しみには必ず終わりがあり、何倍もの報いがあるのです!ですから、主のみことばの約束を見続けることです!これが「忍耐」であり、そこには確かな希望が備えられているのです。信仰によって生きるとは、弱さのただ中で主イエス様を見つめることです。

 

ご一緒に語られて参りました。今日も主はあなたに語っておられます。

第一に、「かつて苦難に耐えたあの時を思い起こしなさい」と。そこには確かに神様の守り、助け、すばらしいみわざがあったはずです。恵みを思い起こし、励みとしましょう。

第二に、「わたしが与える報いから目を離さないでいなさい」と言われます。それはこの世で得られるどんなものよりすぐれ、豊かで、永遠のものです。

第三に、「忍耐深く確信を捨てずに歩みなさい」と言われました。気が短い私たちです。あきらめるのが早すぎます。主はあきらめが悪いお方。主の計画が確かにあるのです。確信を投げ捨てないで、主に期待して待ち続けていこうではありませんか。

39  しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 そこには確かに、神様のお約束の大いなる報酬が、朽ちない永遠の宝が待っているのです。

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