東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書12章7-17節「傷つく神と回復の約束」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/09/07

エレミヤ書12章7-17節「傷つく神と回復の約束」

*** 9/6(日)主日礼拝 説教概略 ***

 ミステリー作家・東野圭吾の作品で「手紙」というものがあります。「犯罪者とその家族」、そして「罪」というものをテーマにした作品でした。両親がいない兄弟がいます。兄は弟をとても愛し、大学に行かせたい一心で盗みに入ってしまい、結果的に強盗殺人を犯し服役します。そのような兄を持つ弟が主人公です。しかし彼は、誠実に生きているのに、その兄のことが原因で周囲から疎まれ、差別を受け、あるいは憎悪の対象とさえなるのでした。兄は弟を大切に思っていたのに、自身の大きな罪のゆえに、かえって弟をひどく苦しめてしまっていたのです。


 「罪(犯罪)」というものが、大切な人々を巻き込み、いかに深く悲しませるものなのかと考えさせられました。兄はその真実を知って、ますます本気で自分の過ちを悔いました。最後には、弟も兄の愛と悔い改めを知って赦すかたちで終わります。

 私たちは、罪を自分の問題としてだけ捉えがちです。しかし、罪は、あなたを愛し、あなたを大切に思ってくれる人を深く傷つけ、悲しませるものなのです。罪を犯すたびに、あなたを愛してやまない神様は胸を痛めておられます。そして、私たちに試練や困難を与えて立ち返らせようともされるのです。その最中も、神様ご自身も胸を痛め傷つきながら、私たちを待っていて下さるのです。この愛をともに覚えましょう。

 

1.神は愛する者をさばかれる  

 預言者エレミヤは自分の親しい者たちに裏切られ、深く傷ついていました。しかし、今日のところで「ある真実」が分かります。実は、苦しんでいたのはエレミヤだけではなかったのです。神様ご自身も、ご自分がお造りになった世界と、そこに住む人々を見て、深く悲しみ傷ついておられたのです。神を無視して世界を壊し、互いに奪い合っている彼らの姿です。そして、愛する者に「さばきを下す」こともまた、とても辛いことです。愛する子を本気で鞭打つのは、親にとって悲しく情けないことです。それでも、滅んでしまうよりは、厳しい環境に置いてでも変えられて欲しいと願うでしょう。傷つきながら、帰りを待つ神の愛がここにあると分かります。7節をご覧ください。

7節 わたしは、わたしの家を捨て、 わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。 

 神様が悲しみ嘆くようにして語っていることばです。「わたしの家」も「わたしのゆずりの地」も、見捨てなければならないと語ります。もし、人が「どんなに悪いことをしても何も失わない」という状態にあるなら、確実に腐敗や堕落を招くでしょう。実際に、この民はそれで思い上がっていたのです。そのため、過ちに気づくためには、捨てられ、失うという経験をせざるを得ないこともあるのではないでしょうか? イエス様の教えの中にこうあります。「もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです」(マタ5:30)。 片手を失ってでも、いのちを保てるならその方がずっといいのです。

 この民は、まさにあまりにも頑なで傲慢でした。8節にこうあります。

8節 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。 それゆえ、わたしはこの地を憎む。 

 それは単に神様から離れていることではありません。牙をむき、うなり声をあげて威嚇する獰猛なライオンのように、神に逆らう姿であると分かります。そして、神様は「それゆえ、わたしはこの地を憎む」と言われます。ただしこれは、感情的な憎しみではありません。「愛しているからこそ、意図的に憎んでいるかのような態度示すこと」です。愛する者に対してそのような態度を取らないと、もっと悪くなってしまう・・・。そういう悲しみの中で主がこれらを語っておられること、私たちは、上辺のことばではなく、その奥にある神の悲しみを感じ取りたいのです。 

 そして、9-13節では、より具体的な神のさばきが語られます。それは、周辺の諸外国の手によって、イスラエルが攻撃され、国も家も家族も失っていくというさばきの現実です。9節では、神様が恵みと祝福を譲り渡そうと選んだ民を「猛禽」に例えます。「猛禽」とは、タカやワシなどの獰猛な肉食の鳥です。スキを見せれば一瞬で強欲にいのちを奪う姿をこれらに例えています。イスラエルは互いを食い物にし、また周囲の猛禽にも狙われ、多くの野の獣の餌食になっていくのです。10節にある「多くの牧者」についても触れておきます。「牧者」と言うと、イスラエルの信仰の指導者を連想しがちです。しかしここでは、文脈上、イスラエルを攻撃する近隣の諸国の指導者たちのこと。バビロンやアラム、モアブ等を指すと考えるべきでしょう。イスラエルは彼らの手に渡され、破壊されるのです。そして、そんな悲惨な状態が間近に迫っていてさえ、11節にあるように「だれも心に留める者はいない」と語られます。これこそが、この時代の深刻さなのです。本当に危うい状態になっていてさえも、その深刻さに気付かないのです。そして、エレミヤのようにその深刻さを指摘し、悔い改めましょうと叫ぶ声を無視するのです。そして、このように外国にことごとく奪われていくことは、神様がさばきとして彼らを用いるということでした。12-13節にある通りです。12節 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。 13節 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」  12節では「主の剣」とあり、13節では「主の燃える怒り」とありますよね。一見外国による蹂躙のように見えても、「主のさばき」がそこにあるのだと示しているのです。私たちも試練に遭うとき、神様ご自身も傷つきながら、この試練をお与えになっていると気づく者でありたいのです。

 

2.神は傷つきながら痛みを通らせる  

 神様がイスラエルを裁くことは、神ご自身にとっても苦痛を伴うことだったという点を覚えたいのです。7節に再度目を留めてください。ここで「わたしが心から愛するものを敵の手中に渡した」とあります。嫌いだから渡すのではないのです。愛するからこそ、そうするのです

 以前、頚椎捻挫にて、整体師さんにお世話になった時のことです。凝っている部分を「痛いですよ」と言いながら、グリグリと全力で押されました。痛くて思わず大きなが声出ました。彼は教えてくれました。「今はすごく痛いですけど、後から楽になりますから。早く治っていただきたいので、痛い治療をしています」と。患者さんからは「痛いからあの人いやだ」と言われるかも知れません。

 また、整体師さんもかなり力を入れてほぐすので、大変だと思います。きっと一日の終わりには、整体師も相当疲労がたまっているだろうと想像できました。でも、その痛みを通るゆえに、実際に良くなっていきました

 牧会をしている中でも、時々、やや厳しい助言をさせていただきます。本当は優しいことだけを語りたいのです。でも、「何でもいいですよ」と言うのは、お互い楽ではあるけれど、祝福に向かうだろうかと考えると、そうはならないですよね。「礼拝や祈祷会を大事にしましょう」と私は申し上げるし、「罪を悔い改めましょう」、「謙虚になりませんか」と申し上げる。一緒に痛みを通る愛があることを知る者になりたいのです。 

 人の罪とは、単に「ルールを破ること」ではないのです。愛してくださる方との関係を深く傷つけることだと教えられます。アナタの大切な方、傷つけたくない相手を深く傷つけるのが罪なのです。 

 私たちには心が与えられています。物事を単に白か黒か、善か悪かだけで機械的に判断しているなら、血の通わないロボットのようです。あなたは主がいのちを吹き込まれた血の通う人間なのです。これが善か悪かだけでなく、これが人を悲しませるか、それとも慰めるのか。これが神を傷つけるのか、それとも喜ばせるのか。相手の心を思いやる基準を持てるのが神のかたちに造られた私たちです。むしろ、そういうものの見方で世界を、人を、神を見ませんか。神様が、この民を末期症状から救うためには、真に悔い改めに至らせる必要がありました。それは、ちょっとケガをしたぐらいでは無理でした。重症に陥るぐらいの道しかなかったのです。そして、神様は愛する民を自ら敵の手に渡すという、一番したくないことをせざるを得ませんでした。

 いや、それ以上にずっと通りたくない痛みをも主は選ばれた。ご自分のひとり子キリストをも差し出されたということです。最も痛み苦しまれたのは、神様とそのひとり子イエス様でした。こに愛があるのです

 

3.神の痛み、キリストの打ち傷のゆえに 

 しかし、それゆえに、私たちは立ち上がれるのです。14-15節に救いと回復があります。

14節 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15節 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。

なんと慰めに満ちた主のおことばでしょう。主は回復の約束をここに備えておられるのです。バビロン捕囚からの回復を主は約束しておられるのです。国を失うことも、さばきに倒れることも、それがゴールではない。新しく立ち上がるために、一度失わせ、一度倒れさせる。そういうことが必要な場合があります。そして、その間も神様は一度たりとも見捨てないのです。絶えずともにおられるのです。このように、さばきそのものは「神の願い」ではない。むしろ、立ち返らせるために、しばしの苦難を通らせ、なんとかして滅びから救い出したいのです。そうして、16節にあるように、彼らが神の民の道をよく学び、主の名によって『主は生きておられる』と誓うなら、神は彼らをますます建て上げて下さるのです。

主は今日も語っておられるのです。誰もが失敗し、誰もが過ちを犯し、誰もが道を外れることがあります。そして、しばしばとても痛い思い、辛い思いをするでしょう。けれども、そこで終わってはなりません。「わたしのご計画はその先へと続いているのだ」と主は言われるのです。。そこに希望があります。あなたが苦しんだのなら、意味があります。涙の一粒さえ、主は無駄になさらない。何よりも神様は愛の神です。厳しく諌める中にも一緒に傷ついて下さる。

そして、そこから悔い改めるならば、主は何度でも手を差し伸べ、立ち上がらせてくださる。主はあなたをあきらめたりしない。辛い時期を通らせることもまた、その後の朽ちない「いのちの冠に至らせるための愛の道」なのです。

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