東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/03/10

神の御前に、私は何者か

このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。(Ⅰ歴代誌29:14)  

 多くの奉仕をなしたり、多くの犠牲的なささげものをしたりするときに、私たちはしばしば高慢のワナにかかることがあります。「自分はこんなにやっている」という感覚は、次のような思いへと発展しやすいのです。ある人は、こんなにやっている自分は非常に立派であると考え、神への感謝、人々への感謝を見失います。ある人は、こんなにやっているのに十分な評価がないと考え、不平不満を募らせます。しかし、ダビデ王のこの祈りは、神の前に自分が何者であるかを問われるものです。彼の祈りに教えられることは、献げることができた自分を誇るのではなく、献げられるように与えてくださった神に感謝し、神を賛美するすばらしさです。人がほめてくださる時に、建前ではなく心から「いいえ、私ではなく主がしてくださったことです」と告白できる者とされたいのです。何かが思った以上にできた時にも「主にある兄弟姉妹の祈りのおかげ、祈りを聞かれた主のみわざです」と実感を込めて言える者となりたいのです。

(2019年3月10日 週報掲載)

2019/03/03

自ら進んで、全き心をもって

民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。 (Ⅰ歴代誌29:9)  

 喜びにあふれているイスラエルの民の姿がここにあります。それは祈り求めていたものが与えられた喜びではありません。病がいやされた喜びや何かを完成させた喜びでもありません。それは「献げる」喜びでした。喜びの理由は何でしょうか。第一に、主のために、主の宮のために「献げられた」という喜びです。むなしく消え去るもののためでなく、永遠の神の栄光のために財を献げた喜びです。第二に、嫌々ではなく「自分から進んで」、しかも心からの平安のうちに「全き心をもって」献げられた喜びです。強いられてではなく、騙されてでもなく、虚栄心からでもなく、ただ主のために自分の意志で進んで献げたゆえに喜びがあふれているのです。心を献げた喜びです。第三に、個人的な喜びではなく、他の人々が主を信頼して喜んで献げているのを見て喜んだというともに献げた喜びです。共同体としての喜びであり、一人二人では不可能なことでも、主に導かれともに献げ合っていくとき豊かにされます。新会堂建設の中で私たちは今、現にその喜びをともに味わっているのです。

(2019年3月3日 週報掲載)

2019/02/24

多様性を喜び、協力してともに成長する

 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
 (エペソ4:16)  

 人は自分と異質な存在を受け入れることが難しく、しばしば正反対の人とは対立したり、排除したりしがちです。しかし、神は人をそのような多様性のある存在として造られたのです。人間のからだも異なる多様な器官の協力、連携で成り立っています。ボールひとつ投げる動作でさえ、体のあらゆる部位が一連の動作に協力し、同じ目的に向かって動き、その時にまっすぐに質の高いボールを投げることができます。キリストの教会は異なる賜物を与えられた者たちの個性豊かな集まりです。違うことを嘆いたり、否定したりするのではなく、その多様性こそが神が備えられた豊かさであることをともに喜び、感謝しましょう。そして、それぞれが他人任せではなく、自分に与えられた使命に忠実に歩む時に、成長して愛のうちに建てられるのがキリストのからだなのです。多様性を楽しみ、異なるからこそ助け合える関係を感謝し、愛のうちに協力していくこと。そうして、キリストの教会が建て上がっていくことが神のみこころなのです。

(2019年2月24日 週報掲載)

2019/02/17

御霊による一致とは?

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2-3)

 教会は背景、性別、世代、民族の異なる者たちが集まる場です。考え方も価値観も違う者たちが集められています。一方会社組織は同じ目的、同じ利益に賛同する者が入社しますし、サークルや部活動なども同じ趣味やスポーツという共通点で集まっています。そう考えると教会ほど多様性のある集まりは他にはなく、それでいて「一致」を目指すということは、不可能に限りなく近いと言わざるを得ません。では、聖書は不可能なことを指示しているということなのでしょうか。そうではありません。人の力では不可能だからこそ、神の力(御霊の力)によって一致するようにと教えているのです。それは、考えが同じになることではなく、意見が一つになることではなく、あり得ないほど異なる者たちが、ただキリストの御名があがめられるために、神の栄光が現れるために、自身の握っているものさえ後にして、喜んでささげ合う時に、不思議な一致をもたらしていくということです。細かな枝葉末節のことに終始する議論は一致を妨げ、大切なキリストを第一としていくときに一致が生まれるのです。

(2019年2月17日 週報掲載)

2019/02/10

償いの意義

人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。 (出エジ22:5)  

 「償い(つぐない)」とは、何のためにあるのでしょうか。一つは、ある人の行為によって、物理的、精神的ダメージを受けた人が、その受けた損害を取り戻すためにあると言えます。神はこうして互いに安心して過ごせるように教えておられます。二つ目として、罪や迷惑行為を行った本人が、神の前に悔い改めるだけでなく、償ってやり直していくため、相手との関係を回復するために重要なのです。本人が自分で責任を取り、痛みを通って償いをすることに意味があります。自分がなした行為について、結果を刈り取る経験をしなければ、人は成長できず過ちを繰り返してしまうからです。ここでは「最良の物」で償うとあり、より良いもので返すことを主が教えています。人間同士の関係をも正しく築けるようにとの神のご配慮がここにあります。これらの事から、本来人が神に与えたダメージからすれば、大きな償いが必要だとも気づきます。神に償い切れない私たちのために、キリストのいのちが注がれたことに心より感謝します。

(2019年2月10日 週報掲載)

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