東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2020/03/13

コロナ不安の中で、地に足をつけて歩む


心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。(箴言3:5)

 
新型コロナウィルス関連の情報は、週ごと、あるいは日ごとに変化しており、対応の難しさを感じています。2週間の自粛要請と思っていたら、10日間の延長をお願いするという情報。そして今後もまた変化していくことでしょう。

2020/03/08

ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


コロナウィルスは、コウモリやラクダなどにおもに感染するウイルスだそうです。今回もコウモリが感染源ではないかという情報もありますね(現時点では正確なことはわかっていないようです)。どちらの動物も聖書に記載があります。レビ記11章では、興味深いことに「食べてはいけない動物」として分類されています。おそらく昔からこれらの動物は体内に様々な病原菌を宿す動物だったのでしょう。当時のイスラエルの民が、神様の教えに従って歩むことで、これらのウルスから守られたのだと改めて思わされます

2020/03/06

心が騒ぐその時に

心が騒ぐその時に


新型コロナウィルスのこと、日常品の品薄、経済的なダメージ、先行きの不安・・・

日々の歩みの中で、私たちは今恐れと不安に取り囲まれています。
人は恐れや不安の中にあると、防衛本能として誰かを攻撃してしまう危険も高まることを覚えていきたいものです。

2020/03/01

レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」


レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」

おそらく多くの教会で、メッセージの導入部はコロナウィルスの話題が語られているのではないでしょうか?私たちもコロナウィルス対策はしっかりと行うべきと思いますが、対策が必要なのは何も肉体面だけのことではありません。私たちの大きな課題は、「心の中のウィルス」をどう取り扱うかという問題ではないでしょうか。

2020/02/25

【ご案内】 3月のほっとカフェ


3/17(火) ほっとカフェ・ランチ♪☆ 
  ママ’sカフェ、ほっと」カフェの合同ランチ会
   
残念ながら、新型コロナウィルスの感染予防の配慮から、中止(延期?)となりました。もう少し落ち着いてから、行う可能性もありますが、とりあえずこの日には行わないことになりました。ご理解いただければ感謝です。




<過去のほっとカフェ> 
2月のほっとカフェはシリーズ講演
「心のケアと人間関係」でした。
ほっとカフェ、心のケアと人間関係シリーズ







1月は「お茶を楽しむ会」でした。




   <<お茶会の様子>>

お茶の作法を少し教えていただきつつ・・・







2020/02/23

Ⅰコリント12章25-31節「人が生かされる教会」



第一コリント1225-31節 「人が生かされる教会」



国、国家において最も大切なものは何でしょうか?
財力でしょうか。武力でしょうか。組織や制度でしょうか。

私はいつでも「人」だと思うのです。人材こそ国家の宝であり、人の良し悪しこそがその国の力だと思います。

もちろん教会も同じです。どんな教会を目指したいかと問われるならば、「人が生かされる教会」を目指したいと申し上げたい。もちろん神の栄光が現される教会とか、神のみこころを行う教会といったことは大前提です。どこの教会でも神の栄光が現れることや神のみこころを行うことは掲げていることでしょう。

でも、「人が生かされているか」と問われるならば、そうではない教会も多いのではないでしょうか。

このサンライズチャペルもその点でもっと良くなる必要があります。
なぜなら、神様がそれを望んでおられるからです。主なる神様は全知全能ですから、おひとりで何でもできますが、ご自身のかたちとして造られた人を用いて栄光を現そうとなさっているからです。


この罪の世は人を生かせていません。むしろ人を潰し、人を倒れさせます。人を排除します。私は罪とその結果である滅びに解決をもたらす十字架の救いの上に立つキリストの教会こそ、人を最も生かす場であるべきだと心から信じています


ここに来たら人がキリストと出会い、新しい人生を生き始められる。弱り果てて希望を見失っている人でも、ここに来たらイキイキと輝いていける。その人のうちに与えられている可能性、神の賜物が見出され生かされていく。そのようにして神のご栄光が現される教会です! 
そういう教会を目指したいと思いませんか?


 そのためには、今このみことばを聞いている私たちひとりひとりが、自分のためにではなく他の人のために献身していく者とされていく必要があります。
互いに献身し合う群れです。神様のみことばに従って、喜んで自分を与える者とされていくとき、人は互いに生かされていきます。みことばを通して人が生かされる教会となる道を学びましょう。




1. からだは生きている

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
(Ⅰコリ12:25-27)  
教会はいつでも「キリストのからだ」と表現されます。
クリスチャンの集まりは、人間のからだのイメージで語られているのです。
そこにどんな意味があるのでしょう?
第一に「からだ」というのは「生きている」のです
血が通い、酸素が運ばれ、つながっており、連動しており、いつでも一体で、一緒になって生きています。単独で指を一本ここに切って置いておくとどうなりますか?その指も爪も欠陥も神経も全部生きることができません。からだはお互いの存在によって支え合い、お互いの存在によって生かされるように設計されているのです。
このみことばにあるように、各部分が互いのために配慮しケアし、一緒に苦しみ一緒に尊ばれ、一緒に喜び一緒に生きる。

ですからお互いに無関心で、交わりがないとどうなるか・・・
この「からだ」は生きないですよね。
またサッカーの話で恐縮ですが、わかりやすいので用いたいと思います。
現在スペイン一部リーグで18才の久保選手が活躍しています。しかし、日本人に対する差別は少なからずあり、なかなか彼にパスが回されないという現実を多くの解説者やファンは指摘しています。どんなに才能があっても、パスが回らない、信頼して任されない、助けてもらえない状況では力を発揮できないのがサッカーです。
しかし、直近の試合では多くのパスが回ってきて、1ゴール1アシストの大活躍をしました。
それは教会がキリストのからだであることと似ています。
からだはお互いの協力なくしては、お互いに生きないのです。
絆がなければ、愛の交わりでつながり、祈り合い支え合わなければお互いが生きないのです。

 イエス様は私たちになんとおっしゃったのでしょうか?

 「愛されなさい」と言われたでしょうか?
 
 いいえ。
 イエス様は「隣人を愛しなさい」と言われたのです。「互いに愛され合いなさい」と言わず、「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
口をあけて愛されるのを待っているのではなく、自分から愛していくことこそ神様の願っていること。みこころです。「愛して欲しい、待っています」という人ばかりの集まりでは、お互いに生きることができないでしょう。


 クリスチャン総活躍教会でありたいと願います。
それは全員が奉仕しなければならないといった忙しい教会という意味ではありません。
それぞれのペースで、それぞれの賜物をもって、お互いを生かし合うという意味です。
ただ、孤立して、声を掛けられる人もなく、居場所も持てずに過ごす教会生活にしたくないのです。

互いに友となりたいのです。

案外牧師は教会で友達を得られないと言われます。立場的に難しい面がありますよね。
でも、私はあえて、皆さんの友でもありたいと願います。
アブラハムが神の友と呼ばれ、イエス様が弟子たちを「友」と呼ばれたのですから、牧師と信徒も深い友情で結ばれ互いに支え合ってもいいではありませんか。
そして、信徒同士も個人情報云々とばかり言わず、そしてまだ信者でない人も含めて、友だちになれる教会でありたいと思うのです。
SNSで個人情報を隠してつながり、面倒なことがあるとすぐ切ってしまう友ではなく、しんどい時にこそ寄り添い泣いてくれる友が、私たちには必要です。




2. 互いに違う役割を担うが欠けていい部分はない

「キリストのからだ」と表現されている意味の第二のことは、互いに違う役割を担うが、欠けていい部分はないということです。
体には欠けて良い部分などありません。
しかし、しばしば私たちは互いに比べ合ってしまいます
他の人がとても仲良く見え、楽しそうに見え、自分はその交わりの中にいないように感じます。

あるいは、自分などいなくても何も変わらないのではないかと思うこともあるでしょう。
確かに誰か一人がいないからと言って、それで動けなくなるようでは困ります。でも、その一人がいないことは「痛みを伴うこと」をお互いに忘れないでいたいのです。

26節に一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむとある通りです。そしてお互いの違いを否定し合うのではなく、尊重し合いたいのです。神様が個性を与え、異なる賜物を与えておられるのです。


28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。 

私たちは自分と違うということを否定的にとらえることがなんと多いことでしょうか。
しかし、朝型の人と夜型の人がいることによって、24時間、社会が支えられているのです。細かいことに気づける人がいるので、全体を見渡せる人が安心して動けるのです。皆が同じタイプでなくていい。話すのが得意な人ばかりじゃなくていい。団体行動が得意な人ばかりじゃなくていい。静かに一人で過ごすのが好きな人もいるから、そういう人も安心して教会に来られる。賜物に優劣があるわけではない。


 他の人の賜物を自分のことのように喜びましょう。あの人は歌声がすばらしい、自分はそれに比べてダメだなと思うのではなく、あの人の歌声のおかげで「私たちの賛美はすばらしいものとされている」と自分のこととして喜ぶのです。
なぜなら、私たちは同じキリストのからだなのですから。
あのデザインのセンスはすばらしい。自分にはない、悲しいと思うでのはなく、「あの人の賜物が生かされている私たちの教会のチラシはすばらしい!いいでしょ?」と自分のことのように胸を張ればいいのです。


これらを実践するために、共通して全員が求めるべき大切なものがあるとパウロは教えます。それは最も大切で、最も優れていて、誰もが追い求めるべきものだと。

12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。 よりすぐれた賜物、はるかにまさる道。それは何でしょうか?




3.愛を追い求めること

 続く13章全体は「愛の章」と言って良いでしょう。山をも動かすほどの信仰があろうと、愛がなければ意味がないとバッサリ切り捨てるほど「愛」の重要性を説いています。
結局どんなに良い説教がなされ、魅力的な会堂があって、いい音楽があって、楽しいプログラムがあろうと・・・結局愛がないと人の心は満たされません
愛のある教会を目指したいのです。一人ぼっちの人がいないように。さみしい思いをする人がいないように。自分がその一人ぼっちなのだと思うなら、自分からも声をかけ友になる。

 あきらめずに愛を追い求めてください。
1313-141節 いつまでも残るもののうち、一番すぐれているのは愛。
「愛を追い求めなさい。」

 
 人々がここに来て生かされるようになる教会になるには、愛が必要不可欠です。

 伝道・宣教=イベントをやって人がたくさん来て終わり。プログラムだけではなく、もっと人格的なものである。良い建物があり、良いプログラムがあり、美味しいご馳走もあるかも知れない。でも、それでは伝道とは言えないのです。それは宣教ではない。
肝心なのは「人」です。その建物にいる人々であり、そのプログラムを行っている人であり、美味しい物を作り提供する人々が大切です。何より、愛をもってひとりひとりがなしていくことでしょう。

 
人格的な宣教です。
「キリストの愛に根差して宣教する教会」という理念を私たちの教会は掲げています。
一方的に伝えて満足するものではなく、その人を愛し、友となり、一緒に歩んでいく教会でありたいと思います。イベントで宣教するのではなく、愛の交わりで宣教するのです。
 親しい仲間ができない場所には、居場所が生まれません。居場所のないところには長くは滞在できないものです。どんなにメッセージが良くても、どんなに会堂が立派でも、人との関りが良くなければ・・・ 。

ぜひ、神様のみこころに生きて、愛の交わりを築き、「人が生かされる教会」を目指していきましょう。ここから世界に人が生かされる「愛」を発信していきましょう。

2020/02/21

聖書由来のことわざ「目からウロコが落ちる」


  目からウロコが落ちる  


意味:〔新約聖書使徒行伝九章から。略して「目からうろこ」とも〕
あることがきっかけとなって、迷いからさめたり、物事実態がわかるようになる。
(三省堂 大辞林 第三版より)


聖書に由来する格言、ことわざは意外に多いということ、ご存知でしょうか?
世界中で読まれてきたベストセラーですから、ある意味当然と言えるかも知れません。

普段日本人が何気なく使っていることわざも実は聖書から来ているものがあります。
少しでも聖書に親しんでいただくために、少しばかり紹介させていただこうと思います。

【 由来となった聖書個所 

するとただちに、サウロの目から鱗(うろこ)のような物が落ちて、目が見えるようになった。(使徒9:18) 


クリスチャンを見つけては暴力をふるい、捕え、迫害してきたサウロという人がいました。彼には彼なりの正義があって、それらを正しいことと思いこんでやってきたのです。
彼の心の目が開かられておらず、間違った正義感に支配されていたのです。

しかし、ダマスコという町に向かう途中、彼は天からの光を受け地面に倒れました。
天から声が聞こえました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

サウロが誰なのかたずねると・・・


「あなたが迫害しているイエスである」との声が聞こえました。


同時に彼は目が見えなくなり、手を引かれてダマスコの町まで来ました。
サウロは三日間、目が見えず飲食もできませんでした。ただ、苦しみと恐れの中で祈っていました。そこで神から遣わされたアナニヤという人物と出会います。

アナニヤは最初、サウロがどれほど自分の仲間を迫害してきたかを知っていたので、なぜ、神がそのような者を助け、宣教に用いようとるのか理解できませんでしたが、神の言うとおりにし、彼の目をいやすために、手を置いて神からのことばを伝えたのです。

すると、ただちに、サウロの目からウロコのような物が落ちました。

彼はその途端、目が見えるようになったのです。
彼の肉眼が見えるようになったと同時に、彼は心の目で神のみこころを見る者とされたのです。 

彼はその後、バプテスマを受け、イエスこそ神の子であると宣べ伝えるようになりました。彼はやがて「パウロ」という名で宣教の使命を全うしていく者となりました。


まだ聖書を知らない頃、「目からウロコが落ちる」ということわざは、どうして「ウロコ」なの??と疑問に思ったことがありました。

しかし、聖書から来たものであると後に知りました。
TVの「トリビアの泉」という番組で紹介されたので、この事は割とよく知られているかもしれません。


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