東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/06/10

キリストの福音を語る聖霊


すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒2:4) 
 約束の聖霊がすべてのキリスト者に臨まれるようになった日がペンテコステです。聖霊は旧約聖書の時代から約束され、キリストご自身も弟子たちに約束された助け主です。この聖霊に満たされた時、弟子たちは他国のことばで話し出したのです。そして、肝心なその内容はキリストの福音でした。バベルの塔の出来事以来、ことばは混乱し人々は世界のあちらこちらに散ってしまいました。けれども、世界中に散らばったすべての民族に届くことばがキリストの福音であることをペンテコステは示してくれたのです。この日、御霊によって十字架の福音を語ったペテロたちを通して三千人が救われました。この日から本格的な世界宣教が開始され、キリスト教会が始まっていきました。いかに、聖霊によって力を受けて語ることがキリスト者の歩み、神の国の働きにとって重要であるかに気づかされます。誰も聖霊によらなければ、「イエスを主」と告白することもできず、世界への証し人となることもできません。キリスト者に神の力を豊かに与えてくれる聖霊の働きに、すべてのキリスト者が導かれて歩むことを心より願います。
(2019年6月9日 週報掲載)

2019/06/02

祭りの意義


年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。(出エジ23:14 

 「祭り」は、おそらくどの国でも存在し、また長い歴史を持つものが少なくないでしょう。しかし一般的に「祭り」の本質は、近年では失われています。人間本位のものとなり、人が楽しみ騒ぐことにフォーカスされているからでしょう。聖書では「祭り」というものが大切な意義をもって、神のご命令のもとで行われていたことに気づきます。しかも、このみことばにあるように目的は「神のため」です。人のためではなく神中心であるので、勝手なやり方ではなく、勝手な時でもなく、神の定めた方法、神の定めた時においてなされたのです。けれどもそれは、結果として神が人の幸いを願って備えられたことを私たちは知る必要があります。人が神の恵みに「感謝する機会」であり、救いのみわざを「覚える機会」であり、定期的に行うことを通して「次世代に伝える機会」となっていたと言えます。現在のプロテスタント諸教会は、祭儀的なものを極端に排除しすぎたかも知れません。祭儀の所作を通して、そこにある神のすばらしさを味わい、また伝えていく意義もあったことでしょう。洗礼、聖餐、クリスマス・・・様々な礼典や祭典の意義を改めて考えさせられます。
(2019年6月2日 週報掲載)

 

2019/05/26

不正の富で友を???


 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。(ルカ16:9 

 聖書中でも難解なみことばの一つです。キリストがこんなことをおっしゃるのかと驚く人も多いことでしょう。ですから、その真意をしっかりと理解することが必要です。まず引っかかるのが「不正の富」ということばです。これは「この世の富」と言い換えればわかりやすいでしょう。この世の富を運用している人はすべて聖書が言うところの罪人ですから、神の目には汚れているものであり、やがて朽ちていく富なのです。それは天に積まれる宝が永遠であることとはっきり対比されます。しかし、こうした汚れた世の富もまた、神の栄光のため、良い働きのために用いるならば神に喜ばれるものなのです。では、世の富で友を作れとはどういうことでしょう?この友もまた「永遠の友」と言えば良いでしょう。永遠の住まいであなたを迎えてくれる友を作るのです。つまり、朽ちていく富だからこそ、今、多くの天の友を作るために生かしなさいということです。天に持っていけないこの世の富に固執せず、賢く有効に用いて天国をあなたの友でいっぱいにしましょう。
(2019年5月26日 週報掲載)

2019/05/21

ここにおられたのに


創世記2810-17節「ここにおられたのに」

エゴに満ちた罪深い日々 
 
 ヤコブの人生の前半・・・それは罪深い日々だった。
 兄のかかとつかんで生まれてきたヤコブは、いつも兄に追いつき、追い越そうとする競争の日々。「自分さえ良ければ・・・」という自己中心的な性格。
 やがて彼は実の父を騙し、お兄さんを出し抜いて「長男の権利」を手に入れたのです!

 しかし、ずるいことをして利益を得る人は、その分必ず何かを失うものです。彼は兄の「殺意に満ちた憎しみ」を買い、幸せな家庭を失っていきました

2019/05/19

恵みが見えない



父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。(ルカ15:31 

 兄息子は怒っていました。弟は、父の財産を生前から求め、それをもらって家出をし、遊びまくって一文無しになった不良息子です。父から叱られ罰せられ、厳しい毎日を使用人として過ごすのなら納得もいく。しかし、父は弟の帰りをあまりにも手放しで喜び祝っているのです。自分は長年我慢して仕えて、遊びたい時も遊ばず、悪さもせずにやってきたのに・・・。そんな妬みから来る不満と怒りに支配されているのです。父親は弟ばかりを愛し、兄を愛さなかったのでしょうか。弟だけを心配し、兄を心配していないのでしょうか。兄の怒りのことばに対しての父の答えがこの31節です。「おまえはいつも私と一緒にいる」とあります。実に、これが最大の恵み、最大の幸せだったのです。弟はここからこぼれたので、必死に帰りを待つ父の姿がありました。一方で兄はここにいるのです。恵みの場にいるのです。しかし、恵みと愛がここにあっても気づかない、見えない盲目な兄です。父は彼をもとても心配しなだめています。私たちは恵みと愛の場にいながら、その恵みと愛が見えない盲目な者にならないようにと思います。目の前にあるのです。
(2019年5月19日 週報掲載)

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