東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/10/09

教会開放日の恵み

 
今日は教会開放日。
新会堂で新しく始めました。
 
今日も子どもたち、青年たちが集まりにぎやかです。
小学生が5人、中学生4人、大学生2人、そして大人の方々も!
まだこれからも来そうです!
 
ある子たちは卓球、ある子たちはボードゲーム、ある子たちは歌を!

そのように教会が用いられていることは、

なんと嬉しいことでしょうか。
 
イエス様は、わたしのもとに来なさいと
多くの人を招きました。
疲れている者も、重荷を負っている者も、
子どもたちも、取税人、遊女なども招かれました。
 
教会は、イエス様を求める人みんなに開かれている場所です。
 
 
これらの写真も、来ている中学生の子が撮ってくれました!
 
 
お花を持って来て下さった方、
活けてくださった方にも感謝♪
いやされます。
 



2019/10/06

あり余るほどに


モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」(出エジ36:5) 

 神を礼拝し、神のお心を知るための会見の天幕作りがなされていました。その時、神は召した者をご自身の霊で満たし、知恵を授け、他の人に教える思いも与えてくださいました。やり通す「志」でさえも主が与えてくださったのです。

自分の情熱ではなく、主の霊がくださる熱心によって、私たちは心燃やされていくのです。

そのような者たちが材料を献品し作業をしていった結果、驚くべき事が起こりました。

このみことばにあるように必要な材料が足りないということはなく、なんとか満たされたというのでもなく、「あり余るほど」与えられたということです。

彼らは自分にある物を献げ、自分に与えられている技能を献げただけです。

しかし神の霊に満たされ心からした時、あり余るほど十分であったことがわかります。

多くの場合「足りない」と嘆く私たちではないでしょうか。しかし、物が足りない、人手が足りないのではありません。「主の御霊に満たされる人」が足りないということではないでしょうか。

神の人として自分を献げるときに、神の祝福によってあり余るほど十分与えられるのです。
(2019年10月6日 週報掲載)

2019/09/29

聖書を知っていれば大丈夫 ~終わりの日への備え~



人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。(ルカ17:23-24) 

 キリストの再臨についてはイエス自身が語っているみことばによって正確に知っておくことが大切です。世の終わりに近づくにつれて、キリストを名乗る人が多く現れ、人々を惑わそうとすると書かれています。

あそこだ、ここだと騒ぎ立てること自体、偽者の証拠であると言えます。

ここにあるように、人の子の日、すなわちキリスト再臨の日には、稲妻がひらめき天の端から端まで光るのと同じようにして来られるのです。

それは、どの地域に住んでいようと、誰でもわかるほど明確なしるしなのです。

このように、終わりの日に備える最良の方法は、イエス・キリストご自身のことばをよく心に刻んでおくことです。

世の終わりに関する聖書のみことばを知っていれば、焦ったり動揺したりする必要がありません。

語られている通りのことが、その通りに起こるだけのことです。

神を心から信じて、心を騒がせることなく、聖書のことばがひとつひとつ実現していくことを数えながら備えていきましょう。
(2019年9月29日 週報掲載)

2019/09/24

15分で学ぶ 預言者ヨナの人生 


B.C.8世紀頃の話。イスラエルにヨナという預言者がいました。神様は彼に北東にあるニネベの都に行き、神の救いを知らせよと命じました。ニネベの都に積み重ねられた悪行がひどく、神様が滅ぼされようとしているというわけです。
 
ところが、預言者ヨナはこれに逆らいました。
1:3 しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。

2019/09/22

神の国を受け入れる


『見よ。ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21) 

神の国はいつ来るのか」とパリサイ派の人々はイエスに尋ねました。

彼らはその時、まさに目の前に神の国を目撃していました

それなのにこの問いをキリストに投げかけたのは、彼らの心の目が閉ざされていたからに他なりません。神の国の王はイエス・キリストご自身であり、キリストがこの地上に来られた目的は神の国に人々を招き入れるためでした。

キリストが悪霊を追い出し、病をいやし、人々を絶望から希望へと導かれている現実こそ、神の国が始まっているという事実そのものです(マタイ12:28)

「あなたがたのただ中にある」と言われたのは、神の御子が人の姿をとって、人の間に住むようになられた事実です。

パリサイ人たちが今見ている、取り囲んでいるキリストがそこにいることこそ神の国の到来であると知って欲しいからです。

子どものように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入れないと語られているように(マルコ10:15)、そこに見ている、聞いているだけで終わらず、心を開いて受け入れる者となりましょう。

神の国は一度入った者を決して見捨てない永遠の御国です。
(2019年9月22日 週報掲載)

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