東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: メッセージと祈祷課題

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/03/31

メッセージと祈祷課題


本日の教会での祈祷会は中止となりましたが、ぜひ一人一人が主の前に静まりみことばを味わい、祈りましょう。

祈祷会メッセージ
ヨシュア記5章12-15節 「今置かれている戦いは主の戦い」

音声配信は終了いたしました。

献金をささげたい方は、礼拝の時と同様に封筒・袋等をご自身用意し、心を込めて神様におささげください。

音声のみとなっています。
音量が小さいと思われる場合は、各自でボリューム調整をお願いします。



*** 祈祷課題 ***

1.コロナウィルスの終息のため、感染者のいやしのために。大切な方を失った方々への神様からの慰めや励ましがありますように祈りましょう。

2.日本中、世界中の教会のために。私たちだけでなく、礼拝を持てないでいる教会も多数あります。動画配信もできない教会もあると思います。主が支えて下さるように祈りましょう。教会の財政面も覚えてお祈りください。どの教会も多くの集会が中止になっている影響は小さくありません。

3.闘病中の方々のために祈りましょう。コロナウィルスだけでなく、様々な過酷な病と闘っている方々がいます。主のいやしを求めて祈りましょう。肉体だけでなく、内なる人を主が強めてくださるようにも祈りましょう。

4.お互いの信仰が弱ってしまわないように祈りましょう。交わりが希薄になり、連絡が取りにくい状況ですが、この時にかえってますます、お互いを思いやり積極的に声掛けできるように祈りましょう。

5.福音自由教会協議会の働きのために。また、無牧の教会のために祈りましょう。


可能な方はLINEやメール、電話などでお互いの近況や主から与えられている恵みを分かちいましょう。

    
*** メッセージ ***

ヨシュア記5章12-15節「今置かれている戦いは主の戦い」

日曜日に引き続き、インターネットを用いてということで皆さんのお顔を拝見できないのがとても残念です。

一方で神様の思いもよらぬ恵みもありました。初めての動画配信で戸惑い、作業が完了するまでにだいぶ時間を要してしまいましたが、多くの方からレスポンスがありました。

ご自宅で持たれたゆえに、普段は礼拝に参加されていないご家族が一緒に動画を見ることができたという声、また礼拝には来られていない方の中からも、動画を視聴し礼拝に参加されたとの声もありました。とても心に染みましたという声もいくつか頂戴しました。

悪いことばかりではなく、この機会に教えられることや、この時だからこそ与えられる恵みもあるのだなと感じています。神様のなさることは不思議です。

一方で目の前の現実は甘くはありません。東村山市民ならば誰でも知っている志村けんさんが、コロナウィルスが原因で亡くなられました。本当に残念です。また長い戦いになるとの専門家の意見もあります。やはり人と触れ合うことができず、コミュニケーションが十分にできないことは、人間として非常にストレスですし、弱さを覚えますね。こうした状況の中、主は私たちに何を語っておられるのでしょうか?

今日はこのみことばから、「今置かれている戦いは主の戦い」であることを教えられてまいります。

 今日の場面、イスラエルの民がヨルダン川を渡り終え、ようやく約束の地に到達しました。12節を見ると、荒野で神様が降らせてくださっていた食べ物マナが止まったことが分かります。それ以降、彼らがマナを得ることはもうなかったと語られています。なぜでしょう?12節後半にあるように、「その年、彼らはカナンの地で収穫した物を」食べられるようになったからです。長い荒野の旅路にも終わりがあったのです。そして、この地で収穫できた物を初めて食べられた時に、イスラエルの民の喜び感動はどれほどだっただろうかと想像します。今、私たちは共に集まることの制限を受けています。しばらくの忍耐が必要です。長丁場になるとの見方もあります。でも、会えない状況を通して、共に集まり顔と顔とを合せられることが当たり前ではなく、神様の恵みなのだということを身に染みています。私たちに「当たり前」はないですね。

 さて、カナンの地に入ったとは言っても、この地に安住するためにはまだ大きな試練がありました。この地には神の忍耐を超えるほど罪深い民、目に余るほど罪深い民が住んでおり、ある意味神のなさるさばきの手としてイスラエルの民が彼らと戦っていく必要があったのです(もちろんそれは主が直に命じられた時のみ限定のことです)。

しかし、現実的には目の前の民族は野蛮で、非常に強く、イスラエル人たちはとても敵わないと怯えている者が多くいたほどです。ですから、リーダーであったヨシュアの心は穏やかではなかったでしょう。彼自身不安であり、頭を悩ませていたはずです。13節を見ると、ヨシュアはエリコの町まで行っていることがわかります。その城門は堅く閉ざされていますから、それより手前の方で、これからどうやってエリコを攻略するべきか思案していたのでしょう。

 すると、13節にあるように、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていることに気が付きました。ヨシュアはその姿を見て、新改訳2017の訳では「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」と尋ねたとあります。冷静に穏やかに話している印象ですが、相手は剣を抜き身で持っています。つまり、鞘に納めておらずいつでもヨシュアに切りかかれる戦闘態勢です。

この緊迫した状況で「あなたは味方ですか?それとも敵なのですか」とのんびり尋ねるのは変です。むしろ「お前は味方か?敵か?」といったニュアンスでしょう。戦々恐々と言ったらいいでしょうか。

結局この人は何者だったのでしょう?14節 彼は言った「いや、わたしはの軍の将として、今来たのだ」と。なんと「主の軍」の将軍として来られたのです!!それは天使で構成される神の大軍勢の「大将軍」です。もしかしたら、受肉前のイエス様であったかも知れません(そういう解釈もあります)。

きっとヨシュアは「ひぃ~失敗したぁ~」と焦ったことでしょう。顔面蒼白でしょう!自分は神様の名代として来られた方に向かって「お前は味方か敵か?」と偉そうに言ってしまったのですから。

でも、これが人の弱さではないでしょうか?私たちは不安と恐れに支配される時に、本来敵ではない人をさえ敵として見てしまいます。自己中心に陥ると周りが見えなくなります。
恐れと緊張のあまり「敵か」「味方か」という枠でしか見えなくなってしまうのです。神の民のため、助けるために来られた主の将に、失礼にも「敵か味方か」と尋ねてしまう。それは私たち自身の姿かも知れませんね。

志村けんさんが亡くなった時、中国人に向けてのヘイトスピーチも起こったそうです。コロナウィルスをもたらした「中国人が憎い」というコメントも多く発信されたそうです。

しかし、コロナウィルスが命を奪ったのであって、人ではないことを覚える必要があります。中国人でも亡くなっている方、苦しんでいる方が大勢います。同じように痛み苦しんでいる人々です。

これは大事なことで、これから感染者、重症者、死亡者が増えるにしたがって、コロナウィルスではなく人間を恨む、憎むということが起こりかねません。
ですから、私たちはこの目の曇りを神様に取っていただきましょう。目の前に主がおられることを見失ってはいけません。コロナウィルスで傷つき、亡くなって行く人々を見て、主イエス様は涙されているのではないでしょうか。ラザロが死んだ時に涙されたように。イエス様はそういう方ですよね。

ヨシュアは「はっ」として、すぐに顔を地に付けて伏し拝み、なんとか「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と質問しました。これに対する主の軍の将の答えは不思議です。15節です。  ・・・

どうでしょう?一見するとヨシュアの質問に何も答えているようには見えません。でも、これがヨシュアに「最も必要だった答え」なのです。「ここは聖なる場所、ああなたの足の履物を脱ぎなさい。」と。 

この短い答えの本質はこういうことではないでしょうか?

「あなたは何を自分で偉そうに戦略を立て、攻略を考え、自分一人で戦おうとしているのか?なぜ、あなたはこれまで神が救い、神が助け、神が必要を与え、神がここまで導き入れたことを忘れた者のように振舞っているのか?なぜ、私に聞かないのか? これは主の戦いである!まずは、あなたの自身の罪深い汚れきったその履物を脱ぎなさいここが聖なる神の御前であることを忘れてはいけない。これは主の戦い、主の前にまずへりくだり、主を仰ぎ見よ!」 

コロナウィルスとの戦い、それは見えない戦いです。顕微鏡で見れば見えますよ!という話ではありません。本当の敵はコロナウィルスですらないのではないでしょうか。
もっと深い人間性を問われる戦いであると私は思います。

 ひとりひとりが自分の欲のままに行動することをやめ、弱い人に配慮して、隣人をどう愛すべきかを問われながら歩むべき時なのです。自分のために手洗いをするのではなく、自分のためにマスクをするのではなく、自分のために外出を控えるのではないのです。隣人を助けるため、病を抱える人や免疫力の低い人、心が破れそうな人、そうした弱い人を守り支えるためにこれらをするのです

 必要以上に買い占めを行わないのも、知り合いに見つからなければイイというものではなく、必要としている他の方の手に行き渡りますようにと願ってのことです。

これらはまさに、見えない戦いです。

自分の欲との戦いであり、恐れに支配される自己中心との戦い。

それこそ、主の将軍が先頭に立って、みことばを示しながら導いてくださらなければ勝利できない、見えない信仰の戦いではないでしょうか。

この戦いは主の戦いであり、主が将軍であり、この方の声に忠実に従って、ここに勝利してまいりましょう。



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