東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ書53章1-12節「彼の打ち傷のゆえに」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/04/05

イザヤ書53章1-12節「彼の打ち傷のゆえに」

*** 4/5(日) 礼拝説教概略 ***

 おはようございます!
 動画を用いての礼拝。皆さんもあまり慣れていないでしょうけれど、配信する私たちも全く慣れてはおりません。席が空席の状態でカメラに向かって話すというのは結構難しいなぁと感じています。

 普段ならここに皆さんの顔があって、やはり皆さんに向かって話している。笑顔で聞いてくださる方があったり、ウンウンと頷いてくださる方があったり、あるいは首を傾げる方があったり、真剣にノートを取ってくださる方があったりしながら、その反応を受け取りながら語らせていただいているのですよね。
ですから、この機会に改めてメッセージは一方通行ではなく「対話」という側面があるのだと気づかされています。
皆さんがここに居て一生懸命聞いてくださる。それだけでホントに違うのです。力をいただきます。皆さんの存在を通して心燃やされ、励まされ、あるいは、うまく伝わってないかなと感じられることで、言葉が補足したり。
ただ、今は忍耐の時です!皆さんの熱い祈りを背後に感じながら、語らせていただきたいと思います。

 今週は教会歴において「受難週」と呼ばれる1週間。この週の金曜日にイエス様は十字架に死なれ、日曜日の朝によみがえられるという流れです。受難週では特に、キリストが私たちの代わりに苦しみを自ら引き受けてくださった事を共に覚えたいのです。
実は先週、私はいわゆる「ぎっくり腰」と言いますか、ひどい腰痛に見舞われておりました。ある意味私の受難です。靴下も自分ではけない情けないロボットのような状態でした。避けたいとは思うものの、人が痛み苦しみを通るのは必要なことなのですよね。やっぱり、たまには自分が痛まないとダメですね(特に牧師は・・・)。私たちの教会の兄姉の中にも、様々な痛みを抱えながら精一杯歩んでおられる方が多くいます。難病、神経痛、持病、腰痛・関節痛。案外その苦しみは「なってみないと分からない」。
神様は全知全能ですから、もちろんその痛み・苦しみをわかってくださる。けれども、私たちの側からすると、神様は完全無欠で強いので、人の弱さや痛みを同じように感じてくださるというイメージになりにくいですよね。でも、この53章を味わい、そしてイエス様の生涯と重ね合わせていくと、主が私たちの弱さにいかに寄り添ってくださったか気づかされます。イエス様ご自身がそこを通ってくださったのです。
ヘブ4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 
このみことばに何度励まされたことでしょうか。神の大祭司イエス様が、痛みや苦しみを引き受けてくださったことは、本当にありがたいことだと思うのです。
牧師をやっていて「しんどいなぁ」と思う第一位は、人が神様から離れてしまうことです。でも、ある時、経験豊かな先生からこんな話を伺いました。イエス様が牧会していた弟子たち、そこからでさえ離れる者、裏切り者が出たのだと。イエス様が私たちより先に、牧師の苦労を経験なさったのだと。イエス様は最高の牧師、最高の指導者です。それでも離れる人が起こり、イエス様がまずその痛みを通られた。
でも、最後まで裏切り者のユダを主は愛されました。最後の晩餐では彼をご自身の隣、主賓席に座らせ、逮捕の場面でもユダを「友」と呼ばれました。主の愛に倣う者でありたいとも教えられます。

そのイエス・キリストの姿に目を向けて参りましょう。

1. 復活に向かう苦しみ

イザヤ53章は、イエス様が生まれるより700年ほど前に記され、後に来られるキリストの姿を預言しています。この方が人間の救いのために苦しまれる姿、人々から見捨てられる姿、その理由・その意義。それが明確に語られています。直前の52:13では復活の栄光が先に宣言されていまして、そこに向かってキリストの苦難があったのだとわかります。
52:13「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。 

 みことばから教えられるのは、神の御手のうちに歩む者には、意味のない苦しみはなく「苦しみは栄光への階段」であるということです。神を信頼する者は、苦しみの意味を見出し、その後の栄光を知った上で、そこに向かって忍耐できるのだということです。励まされます。
キリスト者には「天国の栄光」が備えられている。今がどんなに苦しくて、やがて必ず栄光に導かれるのです。反対に先の見えない苦しみ、希望のない苦しみは私たちの心をむしばみます。
現在のコロナウイルスの自粛要請。何が辛いかと言えば、いつまで忍耐すればいいのか、忍耐したら良くなるのか、ハッキリしないことです。いつまで忍耐すれば大丈夫なのか分からない。それとも困難な状況がどこまでも続くのか。希望のない苦しみは本当にキツイ!しかし、キリストを信じる者の忍耐はハッキリしています。忍耐の先に「大いなる栄光」が待っているのです。このゴールがあるかないかで全然違います!キリストが生涯を通して、その模範を示してくださいました。



2.苦しみを引き受けられた主イエス


 532節の後半部分を御覧ください。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。 
まさか!イエス様ってこういう方なの?初めての方は驚かれるかも知れません。皆さんのイメージと比べてどうでしょう?すらっとスタイルが良く、イケメンで優しい雰囲気のイエスを勝手に想像していたのではないでしょうか?
しかし、みことばによれば「見とれるような外見はない。輝きもない。慕われるような見栄えもない。」むしろ貧しい見すぼらしい姿であったと言える。
でも、どうでしょうか?だからこそ貧困に苦しむ人々、社会の輪に入れない人、罪深い人がイエス様のもとに集まることができたのかも知れませんね。あまりにもイエス様の外見が美しく、服装も華やかで王子様のようだったら、かえって近づきがたいのでは?
さらに3節ではこうあります。
3節 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
のけ者にされ、ただ蔑まれたのではなく「顔を背けるほど蔑まれ」。そんな経験をイエス様は通られたのです。実際、肉体的にも苦しまれ、精神的にも孤独を味わいました。さらに、イエス様は神である方なのに、誰も尊敬を払わなかったと語られています。ここに預言されている通りです。

私たちが経験する孤独、無視、病の苦しみ、侮辱・・・それらをイエス様は自ら引き受けて歩まれたことがわかります。皆さんの中にも、そうした経験をしている方もいらっしゃるかも知れません。でも、イエス様が先です!あなたより先に通ってくださっている!あなたの痛みをわかってくださる。あなたを孤独から解放してくださる。主イエス様の十字架を見上げる時、私たち以上の痛みや苦しみ、孤独を自ら耐え、それが故に私たちを思いやり、それが故に私たちのために十字架へ喜んで歩まれたと知るのです。


もしかたら、こう反論する方があるかも知れません。「いや、キリストはなんだかんだ言って人気があったじゃないか!群集から先生!先生!と呼ばれ、弟子もいっぱいいて尊敬されていたじゃないか?」と。確かにそういう面もありました。
けれども、本当に苦しい時、人生で最も困難な時、つまり十字架にかかるときにはどうだったでしょうか?

 誰一人イエス様を守りかばう人はいなかったのです。
弟子も群集も、無罪だと気づいた総督ピラトもイエス様を助けませんでした。群衆の中には、自分たちが望む救い主ではないとわかると、手の平を返すようにイエス様を十字架につけろ!と叫ぶ者もいました。弟子たちも、逮捕時にはみんな逃げて行きました。彼らはイエス様を平然と見捨てたのです。

 一番助けが欲しい時に人が離れて行きました。イエス様はそれを通られ、それでも彼らのために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らの信仰をお守りください。」
この預言の通りではないでしょうか?親しい者でさえ、イエス様を正しく理解し、イエス様に最後まで従い続ける者はいなかった。 
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。  
人々はこの愛を理解せず、感謝もしませんでした。むしろ、それこそが人の罪です。6節でも人自己中心性が語られています。それゆえ「さまよう羊のようである」とも。無理解で自己中心的に考える罪人は「彼は神への冒涜の罪で罰を受けたのだ」と批判しました。
しかし、真実はどうだったのでしょう?
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 イエス様がその身に背負われた痛み、苦しみ、侮辱、孤独、それらはあなたのためなのです。イエス様への懲らしめが、私たちに平安をもたらし、イエス様の打ち傷のゆえに、赦しと癒やしが信じる者に備えらえたのです。ここに「身代わりの死」があります。

 10節のところに「代償のささげ物」ということばが登場します。
53:10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。 

「代わりに償(つぐな)う」と書いて代償です。キリストが他の誰かの身代わりのささげ物となることで信じる者たちが救われるという事です。

これを知っているゆえにキリストはご自分の「苦しみのあと」を見て満足さえなさる。
53:11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
自分の苦しみが何のためなのか。その理由、その意味をご存じであるがゆえです。イエス様はこの苦しみがすべての人のためであることを知っています。ご自分の十字架の死=人の救いの道であるので、その苦しみに満足しました。喜びさえ抱いておられたのです。


 2017年に島根県でこんな事故があったそうです。冬の寒い朝、集団登校で横断歩道を渡っていた児童の列に酒気帯び運転の車が突っ込みました。その時に見守りボランティアで付き添っていた73歳の男性が身を挺して子どもたちを守り、彼は亡くなってしまったのです。でも、おかげで子どもたちは軽傷で済んだそうです。まさに身代わりの死です。

 この人は十数年前から、ほぼ毎朝休まず子どもが事故にあわないようにと見守っていたのだそうです。
それには訳がありました。
実はこの亡くなったこの男性は、30年前に、まだ小学生だったご自分の娘さんを、しかもこの事故現場付近で、車の事故で失っていたのだそうです。
その事故の悲惨さ、痛みがわかるからこそ、同じような苦しみを負う人がいてはいけないとの思いで毎日、見守って来られたのです。
この73才の方の愛の犠牲を、子どもたちがしっかり受け取って、与えられた命、守られた命として感謝して、その命を輝かせてほしいなと思いますよね?
それがこの犠牲の愛に応えることでしょう。 

あなたにも、父なる神様の犠牲を伴う深い愛が注がれています。大切なひとり子をあなたの身代わりにささげたという犠牲。そしてイエス様も、ご自分のいのち、その生涯をあなたのためにささげてくださいました。
この愛が私たちに注がれているのです。この愛にどう応えて歩むべきでしょうか。

この一週間、苦しみの中に示されたキリストの愛を覚えて歩みましょう。


















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