本日はイースターです。復活祭とも言います。
まさかイースター礼拝を映像配信で行うことになるとは夢にも思いませんでした。でも、本当に世の中にはいろいろな坂があるのだなと改めて思わされます。登り坂、下り坂、さらには「まさか!」という坂まであるのです。
しかし、このイースター!心から感謝しつつ過ごしましょう!
キリストの十字架の死と復活のすばらしい恵みをともに覚えましょう。
1.イエス様はどんな方?
まず、イエス様はどういうお方なのでしょうか?彼は人々から妬まれ、疎まれ、煙たがられ、逮捕され十字架刑で殺されてしまいます。彼はそんなに悪い方だったのでしょうか?
38節にこうあります。 それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
ここを読む限り、また福音書を味わい、歴史を調べても彼はすばらしい良い教え、良い行いをなさった愛の方であることがわかります。でも逮捕され死刑にされた。
じゃあ、イエス様は何者なのでしょう?
ぜひ、あなた自身がイエス様の立場になったつもりで考えてみてください。
逮捕され、不当な裁判にあい、殴られバカにされ脅されています。ムチ打ちの刑がまず執行されますが、枝分かれしたムチの先端にはクギや金具が多数つけられ、肉が裂けえぐれるほど打たれるのです。そしてこう言われます。
「自分は神の子ではない、ただの人です。自分は神だとウソをついてごめんなさい」そう言えば赦してやろう。
どうでしょう?自分が神の子でないと分かっているならば、普通「すいませんウソでした」と言いますよね。
それでも「言わない」としたら、何者でしょう?
気が狂っていて自分が本当に神の子(救い主)だと思い込んでいるという事でしょうか。
しかし、もしそうならあんなに慈愛に満ちた真実で正しい教えや愛の行動はできないですよね。
じゃあ、こんなにも苦しい悲惨な状況に置かれて、なお自分が神の子であることを否定しなかった理由は何でしょうか?
本当に神の子であるから、否定しようがないのです。
そうでなければイエスという方の行動を論理的に説明することができません。そして神の子であることを目で見える確かな証拠として示されたのが、死からのよみがえりであったのです。
2.十字架刑
神の子・救い主イエスは、不当な裁判を経て十字架に磔にされます。一睡もできないままに十字架の横木をかつがされ、町中を引き回され処刑場へ向かうのです。
十字架刑については、聖書は驚くほど簡単に記しています。それは、逆に言うと当時の人々には説明が不要だったということです。「十字架」という言葉だけで、その恐ろしさが理解できたからに他なりません。
あまりに残酷な死刑なので、人が顔を背けるような刑で、エルサレムの町中では到底行えませんでした。城壁の外のゴルゴタ(どくろ)と呼ばれる丘で処刑されます。人々からののしられ、唾をはきかけられながら歩いて行くのです。
十字架には両手両足を打ち付けられます。体を支えるため太い釘を、手の平では体重を支えられず裂けてしまうので、手首・足首の骨がしっかりあるところにクギを打ち付けられ固定されます。腕と肩に恐ろしいほどの負担がかかり、関節がはずれると言います。肋骨を自由に動かせないために呼吸困難になります。
今、コロナウィルスで肺炎で苦しまれる方が増えていることと思いますが、呼吸困難な状態は本当に苦しいと言われます。
その苦しさから逃れるため、足を踏ん張り体を伸ばさなければなりません。そのたびに両手両足には激痛が走り血が流れます。最終的に、十字架刑は窒息と出血多量で死亡すると言います。時には内臓破裂。そのようにして、長時間にわたり死刑囚を苦しめ、体力を徐々に奪っていきます。服ははぎ取られほぼ全裸です。なんと屈辱的でしょうか?
なぜ、神の御子が、正しい愛の方が、こんな目に遭わなければならなかったのでしょう。
神をも恐れぬ自己中心に生きる罪人の身代わりに、その裁きを受け、信じる者を罪の滅びから解放し、父なる神との交わりに回復させるためです。
こんな話を聞いたことがあります。あるヤクザさんが自分の罪深さを心から悔やんで教会を訪れ、牧師に救いの道を尋ねたそうです。するとその牧師がこんな風に教えてくれたそうです。キリストは、あなたの頭で悪いことを考えたゆえに、その頭にいばらの冠をかむりました。あなたの罪深い心のゆえに呼吸困難に遭い、槍で腹を刺されました。キリストは、あなたの手がなした悪いわざのゆえに、両手首にクギで打たれました。あなたが行くべきでないところにその足で行ったがゆえに、両足にクギを打たれたのですと。
なるほどと思いました。それに加え、私はこう思います。私たちが誰かを言葉のナイフで傷つけるゆえに、主は私たちに代わって人々から言葉のナイフで刺されののしられたのだと。私たちが他の人を尊ばないゆえに、代わりに唾をかけられ辱められたのだと。私たちが神や人に対して関心を払わない愛のない者であるゆえに、主は私たちに代わって見捨てられたのだと。
つまり、キリストは私たちが負うべきあらゆる罪の責めをその身に負ってくださったのです。
弟子たちはそれを後になってから、はっきりとわかり命がけで宣教する者になりました。
3.すべての人の主
今日のメッセージを語っているペテロはその中心人物です。自分たちはこのお方と共に歩んできた証人である。復活を目撃した証人なのだと言っています。39-40節
39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、40 神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
キリストが十字架に死なれた時、弟子は最愛の主を失ったと絶望しました。
自分の人生をかけてイエス様に従ってきたのです。ですから、無罪なのに殺されたという事実は、彼らの希望を完膚なきまでに打ち砕いてしまったのです。
ある二人の弟子は、もはやエルサレムにいる意味を見いだせず、肩を落として故郷へ帰ろうとしました。一番弟子のペテロは、主イエス様をお守りできず、それどころか自分を守ってウソをついてしまいました。私と彼とは関係ないと師弟関係を否定したのです。彼は自分の愚かさ、弱さを恥じて大声で泣きました。しかし、すべては神様のご計画だったのです。
ここにあるように殺されて3日目によみがえること。これがイエス・キリストがすべての人の主となるための救いの道だったのです。
復活したイエス様は多くの人々の前に現れました。傷跡を皆に示し語らい食事をしました。弟子たちはどれほど励まされ、勇気づけられたことでしょうか。二人の弟子は復活のイエス様と出会い、故郷に帰るのをやめ、エルサレムに戻って使命を果たそうと立ち上がりました。
ペテロもまた立ち直り、兄姉を励まし、宣教者、牧者として人生をかけて歩みました。
弟子たちはみな新しい宣教の使命を与えられました。
キリストを信じる者には罪の赦しと復活の約束があることをすべての造られた者に宣べ伝えるようにと命じられました。全世界のすべての人の救いのためです。34-36節
34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
神様にえこひいきはありません。この世界のあらゆる人から見捨てられた人であっても、神は見捨てません。たとえ多くの人があなたをあきらめても、神様はあなたをあきらめません。
キリストの十字架の死と復活の恵みは、性別年齢身分国籍問わず、信じる者ならば誰でも受けられるものなのです。43節では、この真理が旧約時代の預言のうちに示されていたことが分かります。
43 預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」
ユダヤ人を始めとしたけれども、神様は最初からすべての人の救いを備えておられたのです。あなたのために十字架に死なれたイエス様です。そして口約束ではなく、事実死から3日目によみがえり、死に勝利する永遠のいのちがあることを証明しました。このイースターはその記念です。キリストを信じる者はすべての罪に赦しが与えられ、キリストが復活されたのと同じように、終わりの日によみがえり天の御国へと凱旋できるのです。
主キリストはあなたを招いておられます。
黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。