今週は受難週ということで、本来ならば受難礼拝や主の御苦しみを覚えての祈祷会などを持ちたいところです。しかし、緊急事態宣言がついに出ました。1か月ほどは集会が持てないことになるかと思いますので、インターネットを用いながらメッセージを届け、またコミュニケーションを取っていきたいと思います。
今日みことばを通して教えられることは「肉に頼るのは弱く、神の御霊に導かれるならば強い!」ということです。
本日開いているみことばの場面、イエス様が逮捕される直前です。イエス様はゲツセマネという場所で、3人の親しい弟子と共に逮捕直前の時を過ごされました。ご自身の身に迫る十字架の使命を前に、父なる神と親しく祈り交わるためでした。
37節 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 先日の礼拝にて主イエス様の苦しみについてともに教えられました。主キリストが私たちよりも先に、私たち同様あるいはそれ以上の痛みと悲しみを通られているということで励ましをいただきました。ここでもイエス様が「悲しみもだえ」られた姿が語られています。イエス様は親しい弟子たちの前で、ご自分の弱さをお見せになりましたが、そのことがこうして後の時代の私たちに聖書を通して伝えられているのは、私たちを励ますためでもあると思うのです。
38節には主イエス様のおことばがあります。
38節には主イエス様のおことばがあります。
38節 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」悲しみのあまり死ぬほど・・・イエス様がここまでのことばを語られたのです。十字架に向かう孤独、特に父なる神から見捨てられる立場に身を置かれるという痛みは、想像を絶するものがあったでしょう。これがイエス様が肉の誘惑にあっている状態だと言えます。肉の思いにおいては、もはや悲しみが深すぎて死ぬほどであるという事でした。
それゆえ、イエス様は父なる神に祈りました。
39節 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
それゆえ、イエス様は父なる神に祈りました。
39節 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
この祈りにおいても、最初の一文は人としての弱さから出たイエス様の叫びでしょう。「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とさえ祈っています。この苦難の杯を、私から過ぎ去らせて下さい。この苦い杯を飲まずに済むのならば、どうか避けさせてくださいと率直に祈っておられます。
しかし、この祈りがそのまま聞かれたらどうなるでしょうか?
イエス様は苦しみから解放されます。でも、罪人たちの赦しはどうなるのでしょう?
そうです。イエス様が十字架の苦難を避けるならば、人の救いは成しえないのです。私たちは依然として罪の赦しを受けられないままになります。ご自分が十字架に死に、神の罰を受けることが正しいと知りながら尚、それを避けたい。別の救いの道はないかと願った。そのような思いと主イエス様は闘われたのです。
けれども、主イエス様は御霊に導かれる道を選びました。39節後半にこう祈られたとあります。「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」このことばこそが、肉の思いを凌駕した御霊の導きにゆだねた人のことばです。肉の思い、私たちの自己中心からくる思いは「わたしの望むようにしてください」と神様に祈ることでしょう。けれども、神の御霊に導かれる人の祈りは「わたしの望みは〇〇ですが、私の望みではなく神様あなたの望まれることをなしてください」です。
正直、この祈りは簡単にはできません。私は怒りっぽい性格、負けず嫌いです。ですから、自分のプライドを傷つけられるようなことばをいただいた時には、肉の思いはどうしてもやり返したい、相手にぎゃふんと言わせたいのです。そういう時に、「私の望みでなく、神様あなたの望むままに」と祈ることは、本当に難しいことです。
皆さんも、そうした肉と御霊の間での葛藤を必ず通ることと思います。自分の願いと神の願いとの間のギャップに悩まれるはずです。それが人間です。
ガラテヤ5章16,17節にはこのようなみことばがあります。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
肉の思いと御霊の示す道は「対立」します。だからこそ、神様に祈り、御霊の助けをいただき、聖書のみことばを示されて生きていくことが、人が互いに幸せになるために必要なことなのです。肉の思いに従って行動すると、一時的に満足した気になりますが、結果は散々であり、必ず後悔が襲ってきます。
この時主イエス様は「祈りの格闘」を行ないました。主は1回につき1時間にも及ぶ祈りを3度も繰り返す中で、「わたしの望みでなく、父よ、あなたの望むままに」とのことばをご自分の告白となさったのです。3時間もの祈りの格闘の中で、ようやくこの祈りが自分の思いとなっていかれたのではないかと私は想像します。私たちも最初は心が伴わずに「みこころを行なってください」と祈ることがあるでしょう。最初からこれを心から祈れるなら苦しみません。でも、自分の願いは別にあるのですから、最初からこのことばに心が乗るはずがありません。だから祈り続けるのではないでしょうか?
私たちの主は、私たちと同じように誘惑にあい弱さを覚えられました。だからこそ、わたしの肉の願いではなく、みこころをなさって下さいとの祈りに重みがあるのです。弟子たちにご自分の姿を示され、ご自身に倣う者になって欲しいと願われたのではないでしょうか。
私たちの主は、私たちと同じように誘惑にあい弱さを覚えられました。だからこそ、わたしの肉の願いではなく、みこころをなさって下さいとの祈りに重みがあるのです。弟子たちにご自分の姿を示され、ご自身に倣う者になって欲しいと願われたのではないでしょうか。
しかし、残念なことに弟子たちにはこの時はまだ、この意図が十分に伝わっていないように見えます。イエス様が苦しみの中で激しい祈りの格闘をしている間、弟子たちは居眠りをしてしまったのです。40-41節です。
40節 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。 41節 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
以前の訳では「心は燃えていても、肉体は弱いのです」となっていました。しかし、新しい訳では「霊は燃えていても肉は弱いのです」と直されました。私もこの新しい訳が良いと思います。イエス様が弟子たちに伝えたかった真意を文脈から理解すると、イエス様がおっしゃりたい事は「霊は強くとも、肉は弱いのです」という意味でしょう。それは「御霊によって歩むならば強く、肉によって歩むなら弱い」ということです。だから、誘惑に陥らないように「御霊によって祈り続けなけなさい」ということです。
弟子たちはイエス様と一緒に祈ることがみこころだとわかっていた。しかし、肉はそれに逆らった。「祈らずに眠っていてもどうせ何も変わらないだろう!」・・・そのような誘惑の声(肉の声)に負けたのです。イエス様逮捕の直前であったにも関わらず。
私たちは、イエス様のこのおことばにどのように生きるべきでしょうか。イエス様が3度の祈りを終えた後、時が来ました。イエス様を逮捕するために、人々がやって来たのです。
45節 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
46節 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
このときイエス様は、「まだ眠って休んでいるのですか」と語られました。これもまた、主の私たちへの語りかけではないでしょうか。あなたがたは「まだ眠っているのか」と。目を覚まし、立ちなさいと言われます。
この危機において眠りこけていないで、霊の目を開いていただき、立ち上がり自分のなすべき使命をしっかり果たしなさいということではないでしょうか? 肉の思いに支配されて楽な道ばかり歩まず、神のみこころを聖霊によって示され、その道を歩めるよう祈りに燃えなさいと言われるのです。
この危機において眠りこけていないで、霊の目を開いていただき、立ち上がり自分のなすべき使命をしっかり果たしなさいということではないでしょうか? 肉の思いに支配されて楽な道ばかり歩まず、神のみこころを聖霊によって示され、その道を歩めるよう祈りに燃えなさいと言われるのです。
神様は私たちに「聖霊」を与えて下さいました。聖霊は、すべてキリストを信じる者のうちに住み、神のみこころを教え、祈りのことばを与え、罪を示しては悔い改めの実を実らせて下さいます。しかし、この聖霊に自らを明け渡し、満たされようとしないのが、肉に属するクリスチャンです。けれども、私たちは知りました。御霊は強くとも、肉は弱く、肉の力では誘惑には勝利できないと。
しかし、そのような罪深い、肉に生きてしまっている私たちのために、主は十字架に架かってくださったのです。死ぬほどの悲しみを通り、苦しみ悶え、血のしずくのような汗を流しながら、祈り、神のみこころに従われたのです。
それは、ご自分のためでなく、私たち居眠りしている者のためでした。
それは、ご自分のためでなく、私たち居眠りしている者のためでした。
私たちは主イエス様から模範を示され、御霊の祈りへと招かれているのです。
居眠りしている私たちですが、みことばに応答し、目を覚まして祈る者へと変えられていきましょう。
献金をお献げしましょう。
礼拝の時と同様に封筒・袋等をご自身用意し、心を込めて神様におささげください。
後日、集まれる時にお持ちいただくか、教会の口座に可能な時にお振込みください(ご無理はなさらないで大丈夫です)。
りそな銀行 久米川支店 店番535 口座番号1618109
(普通) 東村山福音自由教会
*** 祈祷課題 ***
週報に記載されている祈祷課題をメインに、ひとりひとり心を込めてお祈りください。
1.緊急事態宣言がなされました。コロナウィルスの収束のため、感染者のいやしのためにますます祈りましょう!大切な方を失った方々への神様からの慰めや励ましがありますように祈りましょう。
2.闘病中の方々のために祈りましょう!コロナウィルスだけでなく、様々な過酷な病と闘っておられる方々のために。心や信仰が強められるようにもぜひ祈りましょう。
3.お互いの信仰が弱ってしまわないように祈りましょう。交わりが希薄になり、連絡が取りにくい状況ですが、この時にかえってますます、お互いを思いやり積極的に声掛けできるように祈りましょう。
5.日本福音自由教会の事務所が御茶ノ水OCCビルの5階にありますが、緊急事態宣言を受けて全館閉鎖となります。福音自由教会全体の事務機能が守られますようにお祈りください。
4.それぞれの生活が守られますように。特に収入が減少している方のために。また、教会の財政のためにも覚えてお祈りください。集会が持てていませんので、3月末からの収入がほぼゼロになっています。
5.日本福音自由教会の事務所が御茶ノ水OCCビルの5階にありますが、緊急事態宣言を受けて全館閉鎖となります。福音自由教会全体の事務機能が守られますようにお祈りください。
可能な方はLINEやメール、電話などでお互いの近況や主から与えられている恵みを分かちいましょう。牧師までご連絡いただければあなたのためにお祈りします。