東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネの福音書20章19-21節 「恐れから平安へ導かれる」

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/04/15

ヨハネの福音書20章19-21節 「恐れから平安へ導かれる」

*** 4/15(水)祈祷会説教概略 ***

ヨハネの福音書20章19-21節 「恐れから平安へ導かれる」

 自粛生活も長くなり、コロナ疲れみたいなものが出ているように感じますが、皆さんはいかがでしょうか。やはりあまり精力的に活動ができない、人とあまり会えないというのは元気が出ませんね


 普段、集会がある時は私も多くの方にお会いし、元気をもらっています。特に日曜日は気が付いたら教会にいる間に一度もトイレに行っていなかったなんてこともあるぐらいで皆さんとお交わりしたり、学びをしたり、相談をしたりしています。そんな感じで一日過ごすと確かに疲労感もあります。でも、今考えてみると私自身が皆さんから元気をもらっていたんだなと改めて感じるのです。人と関わるのはエネルギーがいります。けれど同時に多くの恵みをいただているですよね。

 ですから、弟子たちが集まるのをやめず、むしろ困難な時ほどともに祈っていた姿はイエス様の教えなんだなと思うわけです。今日のみことばの場面、イエス様の十字架の死後、弟子たちがある家に集まっていた時のことです。恐れと不安の中にあった、弟子たちのもとに、死から復活したキリストが現われ励ましてくださった場面なのです。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 

 この時弟子たちはどれほど感動し、励まされたことでしょうか?
イエス様が十字架で殺され、弟子たちは望みを失い、もはや恐れに支配されていました。彼らはユダヤ人を恐れて戸を堅く閉ざし、カギをしめて閉じこもっていたのです。
 
 このユダヤ人とは、特にイエス様殺害に賛成していた人々でしょう。弟子たちは、自分たちもイエス様と同じように逮捕され殺されると思ったのです。また弟子たちは、おそらく将来のことも心配し恐れたのではないでしょうか。これからどうなるんだろう。主がお亡くなりになり、自分たちだけでどうしたらいいのだろうか?と。
 
 しかし、この弟子たちの恐れや不安は、私たちにも通じるものですよね?私たちの多くも今、恐れや不安の中にいるのではないでしょうか?コロナウイルスがただ風邪の症状なら、感染をここまで恐れる必要はないでしょう。しかし、死者が多く出ている。しかも、どこで感染したのかもよく分からない。さらに、亡くなっている方のほとんどは、症状が出てから亡くなるまでが非常に早い。元気だったのに突然悪化して亡くなる方もいる。

 そして私たちも今、将来がわからない。先が見えません。自粛生活はいつまで続くのか、いつになったら通常通りの生活ができるのか。あるいは学校のこと、お仕事のこと、経済的なことが心配な方もいらっしゃるでしょう。この状況ゆえにパートやアルバイトができないという方もいます。また、自分もコロナウイルスに感染するのでは?また他の人に感染させてしまうのでは?家族が感染したら?先行きが見えない不安と恐れがあります。

 私たちはこの恐れや不安の中で、どう歩んでいけば良いのでしょうか?こういう時にこそ「主にある平安」を豊かにいただく者でありたいですよね。このような時こそ穏やかな心で落ち着いてゆだねきって歩みたい。それは、イエス・キリストとともに歩むことです。

 恐れと不安の中でカギをかけて閉じこもっていた弟子たちのところに、死から復活した主イエス様が現れてくださいました。神の御子イエス様は、不安で心まで閉ざしていた弟子たちの真ん中に来て言われました。

「平安があなたがたにあるように!」

 そして主イエス様はご自身の傷跡を示されました。20節 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。手やわき腹の傷跡をはっきりと示され、間違いなく十字架で死なれた主イエス様であることを示されたのです。疑い深いトマスという弟子にもそれをよく示し、安心させてくださった。本当に優しい配慮です。
 
 主の声を聞いた時、どれほど慰められ、励まされたことでしょうか。彼らは大喜びでした。絶望から勝利へ、恐れから平安へと引き上げられた瞬間でした。私たちも、今も生きておられ、この世界を治めておられる主がいつでも私たちを抱いてくださることを忘れてはなりません。主はあなたのすぐ目の前に、すぐ隣で微笑んでおられる。

 しかし、私たちが恐れ惑い、不安になるのはこの方が今ここに共におられるということを見失う時ではないでしょうか。 

 昨年の春まで、小さな娘さんのいらっしゃる韓国人の神学生ファミリーがご奉仕くださっていました。その娘さん、まだ私のことを覚えていてくださっていて嬉しいです。彼女がまだ私たちの教会に慣れていなかった頃、お父さんやお母さんの姿が見えなくなると、途端に不安になりみるみる表情が曇ったのを思い出します。親をそれだけ信頼し、親のもとにいることが安心なのです。

 親にしっかりと抱かれ守られている赤ちゃんは、心配をしないでしょう

「ママは、今日ちゃんとミルクをくれるかな?」「何を着ればいいだろう?着る物あるかな?」「家計は大丈夫かな?」そんな心配もしないでしょう。

 神様を信じるとは、赤ちゃんのように父なる神様の御腕に抱かれて歩むことなのです。私たちを造り養い、守って下さる神様の腕に信頼して身を任せることなのです。

同じヨハネの福音書の14:1にこうあります。 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

今日の場面では主イエス様は21節でもう一度「平安があるように」と言われました。再び現れては言われたことばが、これです。
21節 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

平安という漢字は「平和」と「安心」という漢字から成り、今私たちが求めているものでしょう。でも、この平安と訳されていることばの聖書の持つ本来の意味は何でしょうか?「シャローム」というヘブル語から来ています。

シャロームとは「神様との親しい交わりにおける幸せな状態」です。

神との親しい交わりが前提にあって、初めて平和で安心な幸福感を得られる。これが聖書の言うシャローム、平安と訳されていることばです。親と一緒にいても、親を信頼できていない子は、少しも安心しないでしょう。時には家庭が争いの場となり、家に帰りたくないと言う子もいるのは残念です。ですから大切なことは、親との親しい良い関係ですよね。それは私たちと神様においても同じです。

主イエス様は弟子たちの恐れている交わりの真ん中に来て、平安があなたがたにあるように!つまりシャロームがあるようにとおっしゃった。

それは私たちの心が神様から離れていないように!親しく主の御腕の中に抱かれて歩むようにと言うことなのです。ぜひ私たちも赤ちゃんのように父なる神様の腕の中に身をゆだねて安心して歩もうではありませんか?

 そして、主イエス様は弟子たちにもう一つ言われました。「あなたがたを遣わします」と言われたのです!どこにどのように??

「父が私を遣わしたように」とイエス様は言われました。
 父なる神は、迷子になっている羊たちのもとに、まことの牧者であるイエス様を遣わしました。闇の中にいた私たちに光として遣わされました。同じように、不安と恐れの中にある方々に、私たちはこのイエス様にある平安をお伝えするために遣わされるのです。今は不要不急の外出はできないかも知れません。
 
 しかし、電話でもメールでも連絡手段は多くあるのが現代。私たちにできることをお互いにしませんか?祈ることもできますよね。お手紙を書くこともできます。今私たちにできることをさせていただきましょう。

 平安があなたがたにあるようにとの主のことばを、伝える者となりましょう。

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