東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱ歴代誌7章11-16節「主が親しく聞いてくださる祈り」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/04/20

Ⅱ歴代誌7章11-16節「主が親しく聞いてくださる祈り」

*** 2020年4/19 説教概略 ***

 最近、聖書を味わっていて示されたみことばがあります。
そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(Ⅰコリ6:7

 教会内で互いに訴え合うという事が起こった。それ自体がもう敗北であると。今は何をしてもそれは良くないんじゃないか?との声が聴こえて来る状況です。外出自粛要請の中で、公園で遊ぶのはどうなのか?スーパーには家族で行くべきでない?すれ違うぐらいならいいけれど、声を発生して挨拶しない方がいいのでは?

 そして感染された方に対しても攻撃があります。気をつけていないからだ!自粛要請に応じなかったからだと。しかし、本当に気をつけていても感染することがあるのですよね。

 また、感染された方を責める事が益になるでしょうか?

 ただでさえショックを受け落ち込んでいる方に、さらに追い打ちをかければ益々免疫力が下がり危険な状況になります。医療従事者の負担も増します。それは建徳的ではありません。

 互いに訴え合うような歩みは、すでに敗北なのだとのことばが胸に刺さります。

 むしろ私たちは励まし合い支え合うことを問われているのではないでしょうか。

 先週の日曜日、中高生と青年たちでTV電話をやってみました。総勢13名で。慣れないことでしたが、みんなの笑顔が見れてととても嬉しくなりました。ある子はやり方がよく分からず、なかなか参加できませんでした。今日は無理かな~と思っていたら途中から参加でき、その子が加わったら皆から喜びの声、歓迎の声が上がりました

 とても小さな出来事です。ごく短い時間、顔が見れた。声が聴けたという話です。普段ならどうっことない話です。でも、とても嬉しかったのです。とても励まされたのです。神様が「人がひとりでいるのは良くない」と聖書の最初におっしゃった意味が理屈でなく感じ取れたのです。今、私たちは互いに訴え合う時ではありません。励まし合い支え合い、そして祈り合う時です。


 本日のみことばは、14節は今年度の年間指標聖句として選ばせていただきました。
 このみことばから教えられることは、私たちキリストにある者が、神の教会に連なる者こそがへりくだって神様に祈ることです。

 この世のせいにするのではなく、あの人がこう変わればいいのにというのではなく、他でもない神の民である私たちが変えられる事が肝要なのだいうことです。

 最初に分かち合いましたⅠコリ6章には「聖徒たち(つまりキリスト者)が世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか」とのことばもあります。

 それに相応しい神の民として歩むために、キリスト者は他の誰よりも謙虚でなければなりません。自分の罪に対して真摯に向き合わなければなりません。そうして神様にいつでも立ち返り、祈る者でありたいのです。

 神様は御前にへりくだっている者の祈りを親しく聞かれるからです。この「祈り」のわざこそは、神様を信じる者に与えられているすばらしい「恵み」「特権」なのです。信じていない者にはできないもの。だからこそこの権利の上に眠る者にならないように。


 みことばの背景についてお話しましょう。
11 こうしてソロモンは、主の宮と王宮を建て終え、主の宮と自分の宮殿について行おうとしていた、彼の心にあったすべてのことを見事に実現した。 

 ここにありますように、ソロモン王が主の宮(神殿)を完成させた時の話です。この神殿を神様が祝福されました。この場でささげられる祈りに耳を傾けてくださるとおっしゃるのです。15-16節では、そのことが触れられています。
15 今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。 16 今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。 

 これは、ソロモンが建てた神殿への祝福のことばです。この場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。神様はソロモンにはっきりとそうお語りになりました。ソロモンにとってこの主のおことばは、非常に嬉しいことばだったと思います。なぜなら、ソロモンはこの前にこう祈っていたからです。

Ⅰ列王記8:27「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」 

 ソロモンは神様の偉大さを知っていました。ですから「天」、いや、それを上回る「天の天」なるものがあったとしても!偉大な神様を入れることはできやしない!それなら尚さら私が建てたこの宮になど収まるはずがないと思ったのです。面白いですね。ソロモンは自分で主の宮を建設しながら、こんな風に思っていたのです。

じゃあ、なんで建てたのでしょうか?
 
 それは、自分たちにできる精一杯をささげたということです。
 自分たちなりに神様のためを思って、神の民の幸いを願って精一杯考えた結果、神の宮を建てようということだったのです。

 最初に神殿建設を言い始めたのはダビデです。彼はなぜ思い立ったのか?それは放浪生活の後、ダビデが自分の家に住めるようになった時に、自分は家を持ったのに神様のための住まい(宮)がないと申し訳なく思ったのです。自分は立派な家を持てたのに、神様のお住まいがないじゃないかと思ったのです。

 冷静に考えればソロモンが言うように、神様は別に家いりません。神殿の中に小さく閉じこもる方ではありません。ただ、ダビデのこの思いを神様は喜ばれました。全知全能の神様の前には当然、人は無力に等しいのです。神様の偉大さと比べれば、人間の精一杯等、本当に見えないほど小さい。

 けれども神様はその小さな見えないような努力をくみ取って喜んでくださっているのです。そして事実、神様は人の弱さに合わせてくださって、この宮を喜ばれ、わたしの名をそこに置くとさえ言ってくだいました。人の手で作った宮に、あえて主が臨在してくださると言うのです。
 
 神様が喜ばれるものは、出来上がった立派な建物ではなく、彼らがささげた高価なささげ物ではなく、いけにでもなく、彼ら自身の心です。

「献身」と言ってもいいでしょう。また、彼らの「愛というささげ物」を主は喜び祝福されたのです。神様は彼らが自分の物を惜しんで独り占めせず、お互いの益となるよう願い、神様への献身として神殿建設に臨んだ姿を祝福しました。それゆえ、ここでささげられる祈りに耳を傾けると言われたのです。

 この背景、文脈を理解して13-14節のみことばを味わうとどうでしょうか?神様が応えてくださったことばです。 

7:13 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、7:14 わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。 

 私たちが歩む中でも多くの災いが起こります。困難が襲ってきます。時に私たち自身の罪が私たちに悲惨な結果をもたらします。それは自業自得かも知れません。しかしその時でさえも、悔い改め主の前にへりくだって祈る者の祈りに神様は親しく耳を傾けてくださるのです。そして罪の赦し、地の癒しを与えてくださるという約束です。

 主が親しく祈りに聞いてくださるために、14節で主からその道が示されています。神の民が「自らへりくだる」ことです。

 それは自分を低くすることです。自分を低くするとどうなるでしょう?

 小さなお子さんと関わるのが上手な方の姿勢を見ていると気づくことがあります。その子の背丈に合わせて屈んで自分を低くしているのです。特に警戒している子どもは高い方から言われるよりも、自分と同じぐらい、あるいはそれより低くなって近づいてもらえると心を開きやすくなります。

 何を申し上げたいかと言いますと、自分がへりくだるということは、相手を尊ぶということなのです。神の民こそは、偉くなるのではなく、神の御前にへりくだる。人の前にへりくだる。キリストが神である姿さえ後にして、仕える者となってくださったように。

 神の国は不思議です。偉い人の声を神様は聞かない。自分を高くし、自分は正しく偉いと言う者の声はスルーです。自らへりくだり、自らの罪深さ愚かさを率直に認め、主よあなたの赦し助けが必要ですと求める者に、親しく聞いてくださるのです。

 また、「主の御顔を慕い求め、悪の道から立ち返ること」です。 悪の道を歩むことをやめて方向転換し、神様の望まれる道に生きることです。神様の願いを知ろうと求め続けることです。何より神様を愛することです。

 そしてホームページでも少し記事を書きましたが、コロナウイルスだけが困難ではありません。アフリカからインドにかけてバッタが大量発生し食物危機も同時に起こりつつあると。まさにこの13節のみことばにある二つのことが現代に起こっています。
 
 この状況でこのみことばを思い起こすクリスチャンは少なくないだろうと思います。 この時こそ、世界中に置かれている神の民が心を合わせて祈る時なのではないでしょうか。神を信じない者の祈りは聞かれません。ただ口先だけの祈りは聞かれません。自分の生活だけをどうにかして欲しいと言う利己的な祈りは聞かれません。
 
 神の民、キリストの名で呼ばれる「クリスチャン」が、へりくだり主の御顔を求めて立ち返り祈る時、主はご自身から身を乗り出すようにして親しく聞いてくださいます。


 主の赦しと癒しがあります。期待して祈りましょう!

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