東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一コリント2章10-16節「神の深みを知るキリストの心」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/06/01

第一コリント2章10-16節「神の深みを知るキリストの心」


2020年5月31日 ペンテコステ主日礼拝

*** 説教概略 ***

第一コリント2章10-16節「神の深みを知るキリストの心」




 本日はペンテコステです。すべてのクリスチャンに聖霊が与えられた記念すべき日。また、そのことによって宣教が世界中に広がり、教会が世界各地に誕生するようになりました。こうして世界中にキリストの福音が伝えられ、世界中にキリスト教会が生まれたのは、この御霊に満たされた人々によってもたらされたことです。

 現代を生きるキリスト者である私たちにも、この聖霊が与えられています。新しい心、新しい霊である聖霊を持つ者とされたのです。

 今日のみことばによれば、御霊は神の深みまでも私たちに悟らせてくださる方、またキリストの知性、判断力、理解力、その思いを私たちのうちで示してくださる方です。


1.この手紙の背景  人間的な知恵でなく神の知恵で・・・

 この手紙においてパウロが熱心に御霊のすばらしさを語っているのは、読書たちを心配してのことです。というのは、コリントの教会の兄姉たちの間には一致がなく争いが起こっていたからです。争いの理由の一つは、コリント人たちが知識を非常に重んじて追求する傾向があったという事です。

 知識があることで優越感に浸り、知識があまりない人を見下すという姿勢も生まれがちです。パウロは特に彼らが人間的な知識に偏り、互いに競い合っている姿を聴いてガッカリしたんじゃないでしょうか。教会で聖書知識を自慢し合ってばかりいたら、皆さんどうです?そんな交わりは疲れそうですね。神様の愛も真理もかえって見えなくなる。

 そこでパウロは、本物の賢さを教えるために、今日のか所を記したのだと思うのです。本物の賢さとは、人間的な知識ではなく「神の知恵」を知る人です。なぜなら、1章25節で「神の愚かさは人よりも賢い」とあるからです。

 聖書を学ぶため神学校に入った時のことです。入って半年か1年ぐらい経った頃の私は、神学校生活にも慣れ、聖書知識もいくらか増えてきました。そして、そうやって知識が増えると少し偉くなったような気になることがあります。

 ところが、聖書や神学の知識が増えたからといって、じゃあ神様をより深く知る者になれたかと言えば、そうとは限らないのです。

 聖書を人間的に知識として学んでもキリストの姿には近づくことができません。私は知識によって人を救うどころか、人を深く傷つけてしまったと自省しながら振り返っています。「文字は殺し、御霊は生かす」と聖書にある通りです。単なる人間的な知識によることば、文字は人を生かしません。神の御霊によって神の愛の動機のうちに語ることばが人を生かします。

 聖書は神様の霊感によって記された霊的な書ですから、神の御霊によってでなければ、「神の知恵」としてこれを知ることができません。この手紙の著者パウロはそれを知って欲しいと思っているのです。今日開いていている少し前の2章7節に「神の知恵」という表現があります。続く8節によれば、この「神の知恵」は、この世の支配者たちは誰一人知らなかったともあります。国のトップに立つような人でさえ「神の知恵」を知ることはできなかった。


2.神の知恵を得る方法  御霊によって


 ところが、この神の知恵を知る唯一の方法があることが語られています。どんな方法でしょう?
10-11節です。

10 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。 
11 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。 

 神の御霊こそがこの「神の知恵」を教えてくださるのだと言うのです。この10節では、御霊はすべてのことを、そして神の深みまでも探られると語られています。だから、聖書のみことばによってその愛や恵みの深さに感動を覚え、嬉しくなり、苦しい時にさえも力が与えられるのです。イエス・キリストを救い主として信じるならば、この御霊がその人のうちに住まわれます。例外なくすべてのキリスト者に与えられます。

 そして11節にあるように、人の心は外側から他人が推測することはできても、結局は本人の心しか自分の思いを知りません。同様に神様のお心は外側から推測しても全然わからない。それで、神様はまさにご自身の心を私たちに分け与えるという恵み、すなわち御霊を私たちに与えてくださったのです。
 
 ところが、「知らない」というのは本当に残念なことです。

 しばしば、せっかくイエス・キリストを信じて、神の子どもとキリストの使節、御国の相続者、恵みの管理者等、様々な特権をいただいているにも関わらず、それを味わっていないとするならばなんと「もったいない」ことでしょうか。

12節にこうあります。
2:12 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。 

 聖霊によらなければ、一体何が恵みとして与えれているのかさえ分からない。実にクリスチャンライフは、神が備えられた新しい霊である、御霊によって始まり、終始御霊によって継続されていく必要があるのだと分かります。


3.キリストの心(Christ Mind)に生きる


 そして何より、16節では最も印象的な表現があります。

16節 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。 

 前半の「だれが主の心を知り・・・」のところは、イザヤ書40章からの引用です。
 その文脈では、人間には決して主のお心を理解できないし、そうであれば当然助言などもできない。それが生まれながらの人間の姿であることが語られています。

 そうであるにも関わらず、主の心を知る道が人に与えられたということがここで語られているのです。何しろ、「キリストの心」を持つ者とされたのだからです。

「私たちはキリストの心を持っています」という表現は、本当にこの上ない名誉、計り知れない恵みだなと思います。
 このような「Christ Mind」が私たちに与えられたのです。クリスチャンはまさにChrist Mind」の持ち主なのです。なんと嬉しい、すばらしい恵みでしょうか?

 特に、ここにある「心」ということばは、原語のギリシャ語で「ヌース」ということばで、持っている意味として「知性」や「理解力」を含みます。私たちは心と聞くと、イエス様の「気持ち」や「思い」ということを想像しやすい思いますが、それだけでなくイエス様のお考え、イエス様の知性や判断力、理解力までも含まれているのです。

ですから、「Christ Heart」というよりは、Christ Mind」の方が適切かなと思います。

 つまり、イエス様のように優しい愛の心を持てるという意味も確かにありますが、イエス様のみこころを知り、そこに生きるための判断力や真理を見抜く識別力などを賜るのだということです。なんと心強いことでしょうか!

 弟子たちはいつもイエス様のおっしゃっていることが正しく理解できず、チンプンカンプンなことも少なくありませんでした。しかし、聖霊を与えられた時に、彼らはイエス様のおっしゃっていた本当の意味がわかりました。それゆえ、彼らは宣教者として用いられていったわけです。イエス様のお心を理解し、何が神のみこころなのかを知る力。これらが与えられること。これだけでクリスチャンになる価値があります。


4.聖霊は何のために?


 そして、皆さんと一緒に一つの問いについて考えましょう。
 
 何のために「神の深みまで知るキリストの心」=御霊が与えられたのでしょうか?
 自己満足、自己実現のためでしょうか。御霊によって力をいただいて、自分が大成功をおさめた高い評価を受けるためでしょうか。

 ソロモン王は「神の知恵」を求め、与えられた人です。彼に学ぶと良いでしょう。彼はどういう動機で求めたのでしょうか?参考までに。

第二歴代誌1:11-12  
11節 神はソロモンに仰せられた。「そのようなことがあなたの心にあり、富も、財も、名誉も、あなたを憎む者たちのいのちさえ願わず、また長寿も願わず、むしろ、わたしがあなたをその王として立てたわたしの民をさばくための知恵と知識を願ったので、
12節 その知恵と知識があなたに授けられる。またわたしは、あなたの前の王にも後の王にもないほどの富と財宝と誉れをあなたに与える。」 

 ソロモンは自分の富や名誉や敵の命等を求めず、民を守り導くために知恵を求めました。まさに聖書が教える隣人を愛する動機で神の知恵を求め、与えられました。

 私たちが聖霊の満たしをいただく目的も同様です。

 人々の救いのため、この世界の救いのためであるということです。それを忘れてはいけません。

 自分が有名になるためではなく、自分が人々から褒められるためではなく、自己実現のためでもありません。

 コリントの人々は自分の知識を誇り、競い合いましたが、それは御霊によらずかえって分裂・分派を生みました。しかし、神の御霊は、「Christ Mind」ですから、イエス・キリストが望むことを喜んでなし、イエス・キリストが望まないことからは離れるよう導かれます。それは、私たちが主を知ることを助けてくれます。私たちを通して、他の人々が神を知り幸せになれるよう力を与えてくださいます。

そうやってキリストの栄光が現わされることこそ、御霊のなさるみわざ・目的なのです。



 今日、神様が語っておられます。先週学びましたように、神様は私たちのために「新しい心、新しい霊」を備えてくださいました。それが御霊であり、神様の深いお心まで教えてくださるキリストの心と呼ばれる方です。

 しかし、私たちが古い頑なな心(霊)でいようとするならば、せっかくいただいた聖霊が働かれず、私たちは敗北者のようなクリスチャンライフを送ることになってしまいます。それはあまりにも残念です。受けている恵みを知るためにも、人を助けることができる者にならせていただくためにも、あなたの古い頑なな心を居座らせず、御霊に明け渡し、御霊に導かれて歩みましょう。

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