東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヤコブの手紙 4章13-17節 「明日のことはわからないから」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/06/07

ヤコブの手紙 4章13-17節 「明日のことはわからないから」

6/7(日)礼拝

*** 説教概略 ***

ヤコブの手紙 413-17節「明日のことはわからないから」






当たり前と思っていたことが、当たり前ではなかった。
普通にできていたことが、できなくなった。

この2~3か月はそういう日々でした。

どこかで私たち人間は、慢心していたのかも知れません。衛生面も医療も科学も飛躍的に進歩した現代において、ウイルス感染など「恐るるに足りない」と考えていた節があるのかも知れません。

礼拝ができないかも知れない。

教会活動ができないかも知れない。

そんなことは中々想像できないことでした。だからこそ、この数か月問われました。

私たち人間とは一体何者なのかと改めて問われています
そして改めて教えられています。何一つ当たり前はないなということです。

 少なくともこうして皆さんとお会いできることが「普通」でも「当たり前」でもない。神様の恵みとあわれみによって、会わせていただいているのだということを覚えます。
 インターネットの配信、こうして1階2階に分かれて礼拝できることも当たり前じゃない。犠牲を厭わず労してくださる兄姉の心と健康が守られ、機械も壊れず、ネット通信も正常に機能できて、色々なトラブルから守られて初めてできること。

 正直、本当に綱渡りでここまで来ているなと感じるのです。今日のこの礼拝も感染者がだいぶ減ってきて、落ち着いて来たからできるかなと思っていました。そうしたら途端にまた感染者数が増えてきましたよね?本当に明日のことが分からないのです。その中で判断することの限界ばかり感じました。まさに、みことばにある通りです。

本日のみことばの14節をお読みします。 

14節 あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。  

「あなたがたには、明日のことは分かりません」心に刺さるみことばです。このことを厳粛に受け止めながら、神様の前にへりくだって歩みましょう。明日のこともわからない私たちです。だからこそ、永遠の神様に手を取って導いていただきながら、一日一日をどう生きるのか。みことばから教えられましょう。



1.私たちは何者なのか?


13節 「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
14節 あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

 まず13節では、明日や一年先という未来が自分の考える通りに存在すると思い込んでいる人のことばが紹介されます。明日も来年も当然あるかのように生きている姿です。しかし、むしろ普通はこういう感覚でいるのが私たちでしょうね。そしてもちろん、これは決して計画を持たずに生きよという話ではありません。計画も準備もビジョンも大切です。では、ここで語られている真意は何なのでしょうか?

 それは、私たちが思うべき限度を超えて思いあがってはならないということです。

 それは、5分後10分後に何が起こるかも分からない者であることを忘れてはならないということです。

 それは、「当り前」「当然」と考えることをやめましょうということです。明日こうできることは「当然だ」、来年できることは「当然だ」をやめる。

そのような神様を恐れない「思い上がり」をやめましょうという意図がここにあります。

 ですから、14節では「あなたがたには、明日のことは分かりません」とはっきり語られ、さらにこう続きます。「あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です」

 私たちの存在は「霧」のようであると語られます。ごく限られた時間だけふっと現れたかと思いきや、いつの間にかすっと消えてしまいます。神様の確かさの前に、人がいかに不確かで、儚い者であることかと思わされます。16節でもこう指摘されています。 

16節 ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。 

「誇る」という語は以前の訳では「むなしい誇り」と訳されていました。実際以上に誇って大きく見せることを意味することばです。明日のことを分からない私たちなのに、まるで分っているつもりになって、明日はこうできる、来年ならこうだ、5年後はこうだと誇っていると言うことです。これらは、何の確証もないむなしい誇り、思い上がりであり、神様の前に「悪いこと」なのだと語られています。

 今年の初め、いつも通りの感覚で3月・4月の様々な予定を考えていました。当たり前のように礼拝が行われ、キャンプが行われ、当たり前のようにイースター礼拝、洗礼式、ペンテコステ礼拝ができるのだろうと思いこんでいました。子どもたちも当たり前のように学校に行き、当たり前のように友達と語り、当たり前のように部活や遊びができると思っていたでしょう。しかし、そうではなかったのです。できなくなって初めて、実は「当たり前」「当然」ではなかったのだと知らされました。毎回毎回、集まることができる恵みを神様に感謝していくべきものなのだと思い知らされました。明日はわからない私たちなのだとまず受け止めることが、今のこの時に本当に大切なことなのではないでしょうか。



2.明日をご存じの主にあって生かされる


 けれども、「明日はわからない」・・それでお終いならば何の希望もありませんよね?
しかし、主なる神様がおられるのです。明日どころか未来・将来のすべてを知っておられる方です。しかも「平安を与える良い将来」を備えてくださる方がおられるのです!

 「新しい生活様式」を始めましょうとしきりに言われていますが、私たちはこの神様とともに新しい歩みを始めましょう!15節でこう始めるのだと教えられています。

 15節 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。 

 これが神様を知る者のことばです。「神様のおこころならば!」「主がおゆるしになるのならば」と、すべてのことが神様の御手の中にあることを覚えて生きるのです。それは、神の摂理の中で生かされていることをいつも覚えることです。召された者のために、すべてのことが相働いて益とされる!神様の摂理があることを覚えて生きましょう。

 さらに、もっと言うならば。もはや生きていることが当たり前ではなく、すぐにでも消え失せる事の方が当然で・・・。今日も神様の恵みによって生かされていることは「奇跡なのだ」と考えるのはとうでしょう?朝起きて、「はっ!奇跡だ!」。次の日も起きた時に「あっ!奇跡だ。生かされてる!」そんな風な新しい生活スタイルです。

少し前に「ぼくらは奇跡で出来ている」というドラマがありましたが、まさに「ぼくらは神様の奇跡で生きている」のです。そこから始めたい。神様がおゆるしくださり、今日を奇跡のうちに生かしてくださるのなら、私はその恵みの中で今日できることを「させていただこう」。

 この視点に生きる時、より積極的に今与えられている時を大切にできるのではないでしょうか?17節にこうあります。 

 17節 こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。 

 少し厳しいことばのように思います。でも、私たちを愛する神様が、私たちに本当に大切なことを気づかせようと語っておられるのです。「当然明日もある」との歩みは、なすべき良いことを後回しにしてしまう誘惑を生みます。はっとさせられます。

 皆さんは、ご自分の人生が今日で終わりだとしたらどうでしょう。今日が最後ならどう生きるでしょう?おそらく今日の過ごし方変はわりますよね。

 私は未だにスカイツリーの中に入ったことがありません。外から見てるだけです。なぜか?

 いつでも行けると思っているからです。

案外東京在住の人は、東京の名所に行かない。近いのでいつでも行けると思っているからです。私はきっとスカイツリーに入ることなく天に召されますね(笑)。

それぐらいならいいですよね。

けれども・・・大切な人に「あなたが大切です」と伝えなくていいででしょうか?

傷つけることを言ってしまった相手に「ごめんなさい」と言わないままでいいですか?

今ともにいてくださる一人一人。

一緒に歩めることは当然ではありません。

今日、神様があなたを奇跡によって生かしておられるなら、あなたにはなすべき良い事も備えられています。小さなことかも知れません。でも、先に延ばさず、感謝のうちに「主のお心でしたら」とその一歩を踏み出しませんか。


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