本日の箇所の直前・・・
14節で、ダビデの犯した罪のゆえに「生まれる息子は必ず死ぬ」という預言がなされていました。
ダビデは神様のおことば通りのことが現実に、目の前に起こっているのだとすぐにわかった事でしょう。その時のダビデの苦しみは、どれほどのものだったことでしょうか?測り知れません。
16節では、ダビデが断食して引きこもり、一晩中地にひれ伏してわが子のために神様に祈り求めていたことが記されています。
16節 ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。
一般に親というものは自分の子が大きな病気になったり、大ケガをしたりすると自分が原因ではないことでさえも、強く自分を責めるものです。もう少しこうすれば良かったのではないか!私がこうしていれば事態は変わったのではないか。私のせいだと・・・ただでさえそう思う人が多いのではないでしょうか?
まして、ダビデの場合には、明らかに自分の罪のせいでわが子が苦しみ、その母が苦しんでいる。それを見てどれほど自分を責めたことでしょうか。
その深刻さは17節からも伝わってきます。
17節 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。
地にひれ伏したまま。誰がそばに来て起こそうとしても、ダビデは伏したままでした。食事もとらず、睡眠もとらず、ひれ伏して主に祈り続けるダビデを人々は心配したのです。このままだとダビデ自身が倒れてしまう。しかし、彼を起こそうとしても、食事をさせようとしてもダビデは応じませんでした。
そんな様子ですから、ついに病気から7日目にその子が死んだ時、人々はとてもじゃないけれども、ダビデに伝えることができませんでした。この状態で王様に伝えたら、もうダビデ王は気がくるってしまうんじゃないか?ますます食べ物も食べられず、まっとうな生活ができなくなるのでは?恐ろしくて言えないほどでした。
ところが、ダビデは察します・・・
19節にあるように、家来たちが小声で話しているのを見て気づきます。「見て」なので内容が聴こえたわけではないのです。その様子を見て察したのです。「ああ、ダメだったのか。死んだのか。」。「子が死んだことを悟った」と語られています。
聴こえなかったけれど、その様子、表情などから悟ったのです。
当然でしょう。それだけダビデは本気で祈っていたのですから、子がどうなったのか・・・ものすごく敏感であったに違いありません。そこで直接「あの子は死んだのか」と尋ねると、「亡くなられました」との明確な答えがありました。
ところが、その後のダビデの変化は人々の理解を超えたものでした。俄かには理解しがたいものでした。20節です。
20節 ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて【主】の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。
あれだけ引きこもり、食事もせずにいたダビデが、体を洗い香油を塗り、服を着替え、主を礼拝したのです。そして食事をしました。
理解しがたいのは、我が子がついに死んでしまった時、そこが悲しみの絶頂であり、それまで以上にふさぎ込んでしまうのではないかとたいていの人が考えたからです。
家来たちは不思議すぎて質問しています。21節です。
家来たちは彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子様が生きておられるときは断食をして泣かれたのに、お子様が亡くなられると、起き上がり食事をされるとは。」
それを聞いたダビデは、これまた家来たちには理解できなそうな返事をします。22-23節です。
22節 ダビデは言った。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると【主】が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。
23節 しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」
ダビデの変わりように周囲はついていけなかったでしょう。読者である私たちもまた、俄かにはついて行けないことと思います。私もいまだに分かり切れていないのではと思います。
それでも私が教えられることを申し上げます。
ダビデはもちろん、愛するわが子を救って欲しくて、もしかしたら主があわれんで我が子を助けてくださるかも知れないと祈ったのです。できることはしようと必死だったのでしょう。でも、一方で心のどこかでは無駄かも知れない。これは私が蒔いた種であって、これで何も報いを受けないのなら、あまりにも都合が良すぎるとも思っていたのではないでしょうか?
それに、ダビデは「神を侮る罪」のゆえに、この報いを受けていますから、同じ間違いをすべきではないと思ったことでしょう。ですから、神様を侮り軽んじることなく、神様のなさることを信じ抜こうと決めていたのではないでしょうか。
この子が生きるも死ぬも神様の正しいご判断に信頼しようと。自分の問題を神様のせいにしてはいけないと。
私たちは祈る時に「主よ、あなたのみこころならば」と祈ります。それは口先だけのものであってはならず、人の生死も人間の自分勝手な思いで決められるものではありません。人はこの地上では必ず死を迎えます。それもまた人の原罪のゆえであり、その時がいつなのかは神様だけがお決めになることです。神が与え、神が取られるいのち。
神様がいのちの主権者です。ですから、ダビデも必死に祈りながらも「あなたのみこころならば」と祈っていたのだと思います。
そういう祈りの格闘を7日間し続けたからこそ・・・
「これだけ祈ってなお天に召されるのなら、それが神様の最善のみこころなのだ。この子の人生はそれが最善な期間だったのだ」と受け止めるに至ったのではないかと私は思います。
悪いのは自分であることを誰よりも受け止めていました。
自分の罪の問題を神様のせいにしてはならないと、受け止めていたのです。
でも、逆にその痛みを受けることで、前に進むことができたのではないでしょうか。
家臣の奥さん奪い、身ごもらせ、さらにその夫を殺す。隠ぺいする。
ここまでして何も報いを受けないことこそ、ダビデのこれからの人生にとってマイナスだったでしょう。もしそうなら、自分をずっと責め、自分をさばき続けることになってしまったでしょう。
でも、もう報いを受けたのです。ダビデの身代わりに、愛するわが子が召されたのです。十分すぎる報いです。だからこそ、前に進めたのです。
そして、尚それでも主はあわれみ深いお方であると教えられます。24-25節の記事がそれを語っています。ダビデは自分と同じように悲しみのドン底にいた妻バテ・シェバを慰めようと願い、神様もそれを導かれ、新しい子を授かります。この子がソロモンです。
しかも、この子は主から愛され「エディデヤ=主に愛された者」と呼ばれました。
神様はいつまでも罪を覚えてはおられません。ダビデの悔い改めと、ダビデ自身が深い悲しみを通ったことを見て、慰めと励ましをくださったのです。罪深い関係から始まったにも関わらず、罪で始まったから全部がダメだとなさらない。神に立ち返るならば、そこにさえ祝福をもって導かれるのです。
ソロモンは救い主の系図に加えられました。なんという不思議なみわざでしょうか?どんなに罪深いことがそこにあったとしても、悔いて主に立ち返るところには、新しいいのちの祝福が芽生えるのです。
ダビデもこの痛みを通ったからこそ、バテ・シェバを大切にしたでしょうし、その子ソロモンを本当に愛したことでしょう。
何よりも、このような者さえ赦し、新しい子を与え愛された神様に、今まで以上にお仕えすることを喜びとしたのではないでしょうか。
苦しみを通ることは誰もが避けたいことですが、通らなければならないと主がお決めになった苦しみや試練があります。それを避けていては、実は先に進むことができません。
痛みと苦しみの中でも主を信頼して、一歩ずつ前に進んでいきましょう。