東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ16章33節「勇気を出して!」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/09/17

ヨハネ16章33節「勇気を出して!」

*** 9/16(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨハ 16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

イエス様の一連のメッセージが13章終わりから続いています。特に13章30節でユダがイエス様を裏切るために出て行っています。ですからイエス様の逮捕が目前に迫っている中、イエス様は14章から16章まで弟子たちに十字架前のお別れメッセージをしているわけです。

イエス様はご自身が十字架にかかり、そして復活後に地上を去る日が近づいていることを弟子たちに話されました。心を騒がさず神を信じて歩み続けること。イエス様は天に行かれて信じる者たちの天の住まいを用意されること。イエス様のみことばにとどまり続けることの大切さ。イエス様はやがて去ってしまうが、その代わりにイエス様の心を示す真理の御霊が与えられること。そして、天の住まいを用意したら必ずイエス様が迎えに来られることなどです。


そして、これらのことを弟子に話した理由がここにあります。


第一に、キリストにあって平安を得るためでした。

これらのことをあなたがたに話したのは・・・

あなたがたがわたしにあって平安を得るためです

と主は言われました。

 状況に左右されずに平安を持つことができるならば、なんと嬉しいことでしょうか。

「平安」とは神様との親密な交わりがもたらす幸せな状態です。「神様との親密な交わりがもたらす」というのが大前提で、神様からしか平安は来ないのです。ここでもイエス様はなんとおっしゃっていますか?「わたしにあって平安を得るためです」と言われたのです。「キリストにあって」をスキップしたら平安など決してありません。

 イエス様は一連の話の中で、ご自身との交わりを保つことこそ、父なる神様との交わりを保つこととイコールなのだとおっしゃっていました。この前の章15章も実はイエス様の話がずっと続いていますね。15章と言えば、有名なあのたとえ話があります。

何の話でしょう?

「ぶどうの木」のたとえ話です。

15章5節を一緒に味わってみましょう。

イエス様がぶどうの木で、あなたがたは枝ですとあります。枝はぶどうの木に留まり続けなければ、そこから栄養をいただいて実を結ぶことはできません。つまり「キリストにあって」初めて、キリスト者は生きることができ、実を結ぶ者たちであることです。

イエス様と「ともにい続けること」が大切です。

その実こそ「平安な義の実」です。

イエス様が話されたみことばに留まり、イエス様が自分たちを決して見捨てないという約束を信じて、再会が待ち望みます。

 

第二に、勇気を出して歩むようにです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。 

 この世にあって苦難があること。それはイエス様が百も承知です。

 ご存知の上で勇気を出しなさいと弟子たちを励まされました。なぜなら、イエス様はすでに世に勝利したからです。イエス様の勝利とは、武力や権力など力で相手をねじ伏せることではありません。イエス様はそれが確かにできましたが、それをしませんでした。

 そうではなく、愛によってこの世に勝利されたのです。この後、イエス様は十字架にかかられます。十字架も人々の目には敗北に見えます。苦難にしか見えません。ところがイエス様は十字架の上でもただ愛を示され、父のみこころに従い通すことで完全勝利を治めました。

 どんな罪も、もはや私たちを滅ぼすことができなくなりました。サタンや悪霊がどんなにわめこうと、私たちをイエス様から引き離すことができなくなりました。完全勝利です。

16章22節に主イエス様のこのようなメッセージがあります。

22節 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。 


 ここには復活後の再会の喜びが示されています。死からよみがえられたイエス様との再会は、永遠のいのちの証明でもあります。もはや喜びを奪い去ることができないことを証明したのです。それは同時に、イエス様の再臨における再会の約束ともなります。死を滅ぼされたのですから。

  ですから、勇気を出して歩んで行きたいのです。

恐れてばかり、守ってばかりでは私たちは何をも伝えることができません。

 恐れて閉じこもり、傷つかないように守ってばかりの信仰生活ではなく、勇気をもって臨む信仰生活を歩みたいのです。

コロナ問題で私たちたちはとても慎重にならざるを得ませんでした

インターネットを用いる際にも、礼拝堂で行うのとまったく同じにはできません

ですから信徒の証しなどもあまり考えられませんでした。

牧師はある程度「公人」という立場で仕方ないですが・・・信徒の皆さんはそうではないからです。

でも、今少しずつ、献金のお祈りを声だけ入っていただいたり、お名前を出さないまでも、証しをしていただいたりし始めています。もちろん本人の承諾を得ながらです。

でも、それがやはり人にインパクト、勇気を与えますね。

 感動を覚えた。励まされた。いい教会だと感じてくださる方がいる。

 コロナの問題は慎重さを求められるけれども、同時に勇気まで失ってしまってはいけません

慎重でありながら勇気をもってできることをしていく

なぜなら、繰り返しになりますが・・・イエス様は既にこの世に勝利されているからです

そして私たちはイエス様につながっている枝ではありませんか?

一体とされているのです。

日曜日にも私たちはキリストと一つにされ、共同相続人とされていると学びました。

ですからイエス様が勝利されたのなら、私たちも勝利しているのと同じです。勇気を出してみことばを実行していきたいと思います。イエス様が与えてくださる御霊は、臆病の霊ではありません。

Ⅱテモテ1:7 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。 ここにあるように、力、愛、慎みの御霊です。

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