*** 9/20(日)礼拝説教概略 ***
私は割と時間に正確な方だと思うのですが、若い頃はもっとそうでした。車を運転しても、電車に乗るにしても、自分の計画した時間通りに行きたいというこだわりが強くありました。渋滞とか事故とかトラブルがあっても必死に間に合わせようとしました。
でも、最近は自分の計画した通りでなくても、そこから遅れたとしても、そうなったらなったで、そこにも神様の深いご計画があるからいいか・・・と以前よりはゆだねられるようになったように思います。無理するよりも「ゆだねよう」と思えるようになってきたという事です。おかげでイライラすることが減り、焦ることも減りました。
そう思えるのは神様という私を背負ってくださる方がいらっしゃるからです。
「安心してお任せしよう」と思える信頼に値する方がおられるゆえに「まぁいいか。主よお任せコースです」と思えるようになったのです。
そして、背負ってもらう以上こちらも「ゆだねる」必要があります。背負う側からしたらジタバタされたり、上から指示されるのはとてもやりにくいですね。背負ってもらう以上は「おゆだねする」ことが大切です。
私たちはそもそも、自分の人生を思い通りにしないと気が済まないと思っている罪人です。でも、人生は決して思い通りにいきません。町を歩いていれば前を横切る人がいて、自分のペースを妨げられます。急いでいても赤信号や踏切で止められます。何より人の心は思い通りになどなりません。ですから、背負って運んでくださる神様に、すべてをご存知の神様に背負っていただくことをもっと学んで参りたいと思います。
1.生まれる前から、白髪になっても背負われる神
これらのみことば、バビロニアに囚われていたイスラエル人に向かって語られています。捕囚の中で不自由な生活を強いられていた日々において、神が変わらずあなたがたを「わたしが背負う」と明確に語られました。しばしば真面目なクリスチャンほど神にゆだねるよりも、私が神様の名を背負っているのだと力が入ってしまいます。私たちが主を担っているかのように思いがちです。神様に背負っていただくなんて申し訳ない。私は怠けているのではないか?そんな風に思い、必死に自分の力で神様のすばらしさを現さなければ!と歯を食いしばってしまいます。
しかし、本当は私たちこそが神様に背負っていただいてばかりなのです。
それを忘れてジタバタすると私たちは疲れ果て、神様が豊かに働かれるのとをかえって妨げてしまう事も多いことでしょう。
私たちはもっと安心して神様の背中におぶらせていただきたいのです。なぜなら神様は私たちが生まれる前から、私たちを担ってくださっていたからです。3節。
4節 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
これらのみことばからは、神様の深くて強い愛の意志を感じます。
特に、特徴的なこととして「わたしは」という人称代名詞がくり返し使われていることです。通常ヘブル語では動詞を見れば主語がわかります。あえて人称代名詞を別に使う必要がありません。それでも「わたしは」という人称代名詞をあえて使うのは、それを強調する意味があります。
ですから、ここでは「このわたし自らがするのだ」という神様の明確な意思表示がされているのです。まして主語が同じ場合は、普通は何回も繰り返さなくても意味が通りますよね。例えば、普段話す時に「私は朝起きて、私は顔を洗い、私はご飯を食べ、そして私は歯を磨きました」とは言いませんよね。くどい! 最初に「私は」と1回入れておけば、あとは省けますよね。しかし、この4節では、しつこいぐらいに「わたしは」ということばが繰り返されます。新改訳2017では4回になっていますが、原文では5回「わたしは」という人称代名詞が使われています。最後の「背負って救い出す」の前にもあります。
それは「アナタではなく、わたしがしてきたし、わたしがするのだ」という神様の意志表示です。人に対する深い愛を感じますよね。あなたを愛するゆえに、わたし自らがここまでし続けるのだと。
そして励まされる事は、私たちが良い時だけではない。若い時だけという期間限定ではないということ。悪い時もどんな時でも主はそうされるという事です。ここではあなたが「白髪になっても」変わらず背負うと主は言われるのです。お爺ちゃんになってもお婆ちゃんになっても、神様の前にアナタは変わらずアナタであり、同じように主はアナタを背負って運ぶ。そしてあなたを救い出すと。
だから私たちは、このことばを信じてゆだねましょう!恐れてばかり、アタフタしてばかり、イライラしてばかり、そんな私たちです。でも、主はいついつまでも、私たちを背負い運び救ってくださるのですから、もっと主にお任せしようと決心しませんか?
ここまで神様が「わたしがするのだ」と言ってくださるのですから。人生において「どうにもならないこと」は山ほどあります。そのたびに、イライラして、なんで事態は変わらないのだと喚いても、良くなったりはしません。
伝道者の書7:13 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。 主が曲げられたものを私たちは真っすぐには出来ないのですから、ジタバタせず最善のご計画を持っておられる主にゆだね、安心して歩んでいきたいですね。
2.力ある神を信頼し、ゆだねよう
散々「ゆだねましょう」とお話してきましたが、やっぱり「ゆだねられない」というのが私たち人間の弱さです。なぜでしょう?私たちが神様を十分に信頼していない時、ゆだねられないのではないでしょうか。また、逆に自分には力があると思い込んでいて、神様に頼ることをしないとも言えるでしょう。神様を力のない偶像のように小さくしてまい、自分の力を偶像にしてしまうという課題かも知れません。5節で主は言われます。
5節 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
神様からの問いです。人間はなぜか神を目に見えるものに置き換えてしまいがちです。「目に見える=(イコール)わかりやすい」からでしょう。しかし、置き換えた瞬間に、有限で朽ちて行く、人を背負うのではなく人に背負われる無力に神になり果てます。
お金で金細工人を雇っては、彼らの手で色々な神の像が造られます。もしかしたらとても立派な像ができるかも知れません。しかし、金細工人は罪汚れのない聖なる存在でしょうか?あり得ないでしょう。罪深い人間が生み出したモノは神になるのでしょうか?お金のために造って報酬をもらっているのに、きよらかな神が勝手に生まれるでしょうか?
7節では、出来上がった神々は人の手で運ばれ置かれたところから動けないとあります。それどころか、「叫んでも答えてくれず、苦しみから救ってもくれない」と。
今日読んでいただいてはいませんが、1-2節のところを少し見ていただけますか。
そこに偶像の神の情けない姿があります。1節初めに「ベルはひざまずき、ネボはかがむ」とありますが、どちらもバビロニアの神々の名です。圧倒的な力を誇ったバビロニアも滅び、その偶像の神々が荷車に載せられて運ばれていく様子がここに語られています。
1節後半では、この偶像が疲れた動物の重荷となって運ばれると。人を守り救うどころか、疲れ切った家畜の重荷にしかならない偽りの神の無力さがよくわかります。
私たちがどんなに年を取ろうとも変わらずずっと背負い続けてくださる神様と、私たちに背負われなければ動けない造り物の神。比べること自体神様に失礼なことです。しかし、私たちが「神様にゆだねない」ということは、まさにこの力なき置物の神様のように扱っているということにはならないでしょうか?
私たちの主は、生きておられる力ある神様です。変わらぬ愛をもって白髪になろうとも背負い続けてくださる方です。この事を心に刻み、思い返し、勇気をもって歩んでいこうではありませんか。
最後に8節をお読みします。
8節 このことを思い出し、勇み立て。背く者たちよ、心に思い返せ。