東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 使徒の働き20章1-12節「キリスト者にある励まし」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/09/23

使徒の働き20章1-12節「キリスト者にある励まし」

 *** 9/23(水)祈祷会 説教概略 *** 

 教会の働きに対しては色々な形での妨げが起こります。
 悪魔は当然ながらキリスト者が心強められて、元気に活動することを喜ばないからです。

 それに対抗するには、私たちが神様のみことばに留まり、神様からのお励ましを沢山受け取って歩むことが必要不可欠です。そして、兄姉の交わりの中で互いに励まし合うことです。パウロの宣教の様子を追って行くと、未信者への伝道だけででなくて、信じた人々を励まし教えるということに力を入れていることに気づきます。

 全く初めての人々に語るのはもちろんですが、既に信じた者たちを励ますことにも力を入れているのです。救われても元気のないクリスチャンばかりでは宣教が進まないからです。この点は意外といつも盲点になりがちです。せっかく救われたのに、また別の人の救いのために皆の関心が向き過ぎてしまい、救われた者が十分にケアされて豊かにされることに重きを置かれないことがあります。

 しかし、パウロがしたようにイエス様を知らない人々に伝えるだけが宣教ではありません。信じた人々を教え励ますこともすばらしい宣教の働きなのです。なぜなら、一人でやれることは限られていますが、より多くのクリスチャンが励ましを受け、元気になり、協力していくならば、もっと豊かな働きができるようになるからです。

 今日はみことばから3つの「キリスト者にある励まし」について聞いてまいりましょう。 

1. ことばによる励まし

 パウロが励ました方法は第一に「ことばによる励まし」でした。1-3節最初まで。

1 節 騒ぎが収まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げ、マケドニアに向けて出発した。 2節 そして、その地方を通り、多くのことばをもって弟子たちを励まし、ギリシアに来て、3節 そこで三か月を過ごした。

 1節では「弟子たちを呼び集めて励まし」とあり、既に信じたキリスト者を励ましていることがわかります。また2節では、「多くのことばをもって」弟子たちを励ましたことが語られています。いずれも救われた兄姉たちを励ましています。
 
 そして特に、私たちは明確な「ことばによる励まし」を必要としています。
 日本人の感覚として、きっと分かっているだろうとの思いであえて言わないという感性があります。察することが美徳であり、時にはあえて口にすることが野暮な行為にさえ思えるという感性です。

 しかし、聖書から教えられることは「ことば」をもって伝えることの大切さです。

 私たち人間は、動物のような本能や鳴き声などではなく、神様から授かったことばをもって明確に伝え合うことのできる者とされているのです。ここでもパウロは「多くのことば」を用いて弟子であるクリスチャンたちを励ましています。ことばを尽くしています。

 そしてもちろん、それは根拠のない励ましではありません。神のみことばに根ざした愛と真実なことばです。私たちもことばをもって励まし合うことを大事にしていきたいものです。
なぜなら、実にことば一つで人を殺すことも、人を絶望から立ち上がらせることもできます。トム・ソーヤの冒険の作者マーク・トウェインは「私は誉めことば一つで3か月生きられる」と言いました。もちろんそれがお世辞であれば無理でしょうけれど、心のこもった「愛のことば」であれば、本当に一つのことばに慰められ力を得るということがあります。

そのためにも「いのちのみことば」「変わることのない真理のみことば」「神の愛に満ちたみことば」を私たち自身が豊かに心に蓄えましょう。そこから押し出されるようにして、人の心に魂に響く励ましのことばを伝え続けていきましょう。

口を閉ざさず、あなたの口から出る一つ一つのことばで、笑顔になれるお手伝いをし、希望をもたらすことができたらいいですよね。あなた一人で出来なくても、あなたが励ました一人一人が用いられていく時、宣教は前進するのです。

 

2. 交わりよる励まし

 第二の励ましは交わりによる励ましです。

7節  週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。 

 初代クリスチャンたちのエネルギーの源は、親しい交わりにありました。
 集まれる時は毎日のように集まり、パン裂きの交わり(聖餐)をしました。ともに祈りました。分かち合い学びました。
 
 ここにあるように、パウロの出発前夜には夜中まで語り合ったとあります。
 時間も忘れて兄姉たちと語り合いました。

 今は聖餐式もパン裂きができず、食事会も中々できておらず、残念でありますけれど、少しずつ食事を持参しての交わり、お茶の交わりもし始めています。やっぱりそれがあるだけで、心が励まされ元気が出て来ます。まして、キリストを信じる者たちの親しい交わりは、この世の人々からも好意を持たれる魅力的なものです。

 私たちの教会でも修養会や子どもキャンプなどではできるだけ教会の皆で行き、泊まりがけで交わりをしました。食事を食べながら、ゲームをしながら、みことばの分かち合いをし、そして夜中まで語り合いました。

 本当にそこでの交わりがどれほど私たちを強めて来たことかと思います。インターネットは便利で楽で、コロナ等の感染面を考えると確かに安全です。有益でもあります。でも、やはり顔と顔とを合わせての交わりにはかないません。

 

3. 主のみわざによる励まし

9節 ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。10節 しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。11節 そして、また上がって行ってパンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。12節 人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。

 この出来事は何のために記録されたのでしょうか。

 ともすると窓のところに腰掛けた青年がメッセージ中に眠って3階から落ちたという「不注意な話」にさえ思えます。

 しかし、どうでしょうか?先ほど読んだ7節では「夜中まで語り続けた」とありました。パウロたちが翌日には旅立つということもあって「夜中まで」メッセージが続いていたのです。さらに、これが行われていた場所は「屋上の間」でした。そこは「空の見える屋上」ではないので空気が澄んでいて夜空が見えて・・・という環境ではありません。

 屋根裏部屋のような場所です。ですから、それほど空間も広くもなく窮屈な状態だったことでしょうし、多くの人が入れば酸素も足りなくなりそうです。8節を見ると「ともしびがたくさん」ついていたともありますね。そんな密集した空気が悪い中で青年は窓のところに腰掛けていたのです。

 それは決して態度が悪いのではないでしょう。
 狭い場所ですから、年上の方々に良い場所を譲った可能性もあります。そして、眠気と戦うために夜風のある窓付近を選んだのかも知れません。いずれにせよ、彼が不真面目でとか不注意だったということではなく、やむを得ない状況だったと思われます。

 私たちも一生懸命聞こうとしていても、疲れていて、薬のせいで、色々な理由で抵抗しがたい睡魔に襲われることもありますよね。人間ですから。それでもやはり一生懸命そこに居たということを主は喜ばれていたと思います。疲れている中でもここに来た。「ここにいる」ということに既に恵みがあると私は信じています。

 その中でここにあるように「ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んでしまった」と語られています。彼はそのままこの3階から落ちて、絶命してしまったのです。

この出来事がこのまま終わってしまうのならばどうでしょうか?皆ショックを受けて悲しい出来事として後世に伝えられるでしょう。証しにもならなかったかも知れません。

しかし、神様はパウロを通してみわざをなさりました。
彼を生き返らせたのです。このことで、人々がとても慰められたのです。

12節 人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。 

神様のみわざは人のいのちを回復させるものです。絶望の淵にあった人が希望を持ち、失われていた魂がいのちを回復し、よみがえりの復活のいのちです。
このいのちの力、神のみわざがあるのでどんな状況でも希望を持てるのがクリスチャンの強みです。
 
 みなで彼の命が救われたことを喜んだことでしょう。
 私たちが真剣に主を求めているのなら、神様は不思議に働いて慰めを下さいます。
 励まして下さいます。だから、共に集まることをやめてはいけないのです。

 この交わりに、共に集まる中でのことばに、神様は励まし、慰めを必ず与えて下さいます。そこに神のわざをなしてくださいます。信じて祈り求める者たちのただ中でこそ、神様はすばらしい奇跡を、救いのみわざを、そして大いなる励ましをくださるのです。


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