東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ人への手紙4章10-14節 「あらゆる境遇に対処する秘訣」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/09/28

ピリピ人への手紙4章10-14節 「あらゆる境遇に対処する秘訣」

*** 9/27(日) 礼拝説教概略 *** 

 平成のベストセラー本の中でも、200万部を突破する大ベストセラーとなった渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」は読まれた方もいらっしゃることと思います。実はこのタイトルの元になったことばは、宣教師からいただいたフレーズだそうです。それは「神が植えられたところで咲きなさい」というものでした。
 
 花は植えられる場所を選ぶことが出来ません。そこが嫌だからと言って他の場所に移ることも出来ません。ただ、神様に与えられた場所で精いっぱいの花を咲かせるだけです。でも、それは神様がそこが良いと植えられた場所なのです。

 
 私たちも生まれる場所や境遇を選ぶことができません
 今のコロナウイルスの環境も誰も好き好んで置かれているわけではありません。それでも、神様が意味をもってそこに私たちを植えておられるのだと知る時、そこが嫌だと嘆く人生から、今ここに植えられているのには意味がある!この与えられた境遇の中でどう生きていくのか?どのように花を咲かせようかと考え方が変わっていきます。

 私たちが置かれている環境や境遇を神様からのものとして受け止め、そこでどう生きて行けばいいのかもすべて、神様が教えてくださると知るならば、人生は確実に変わります。
 聖書は人を創造なさった神様のことばです。ですから、あらゆる境遇に対処する秘訣を神様から教えていただきましょう!

 この手紙はパウロという宣教者が、牢獄の中からピリピの教会の人々に宛てて書かれた手紙です。このパウロは「喜びの先生」と言っても良いでしょう。この手紙が獄中で書かれたにも関わらず16回もの「喜び」「喜ぶ」という語が使われているからです。困難な状況にあっても希望を失わず、喜びをもって歩める秘訣が神様の導きのうちに示されているのです。
10節を御覧ください。

10節 私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。 

 ここではピリピ教会がパウロの宣教支援のためにささげた献金への感謝が語られています。ピリピの教会はかつては、熱い信仰をもって熱心にパウロの宣教を支援してきた群でした。ところが、彼らはそれをやめてしまいました。パウロはこの事で心を痛めていました。

 それは支援がなくなったからではなく、彼らの信仰の低迷のゆえでありました。
 この手紙を読んでくると、ピリピの教会には、ねたみや競争心、さばき合う姿、教会内派閥などの色々な問題があったとわかります。自分たちの問題で手一杯で、困っている人や苦しむ人に届いて行く働きにができなかったのでしょう。

 自分たちは大変なんだ。他の人のことは自分の問題が解決してからだ!
 そう考えていたのではないでしょうか。

 私たちも陥りがちです。
 今は自分たちが大変なんだ。人助けどころではない。伝道どころではないと・・・

 しかし、実はこの考えこそがピリピ教会が弱ってしまった最大の原因でした。
 経済的に苦しいところを通っていたのは事実です。内部の不一致もありました。でも、それは本質的な問題ではありませんでした。一番の問題は、神に信頼して人を愛し神のみこころを実行していくスピリットを失ったことでした。

 逆に言うとそれゆえに、経済的な苦しみも重く感じられ、兄姉たちも互いの悪いところばかりを責め合う負の連鎖になっていたことでしょう。しかしながら、多くの人の祈りとみことばによる励ましの中で、ようやくピリピのクリスチャンたちが、幸いな歩みを取り戻しつつあったのです。パウロはそれを知って喜びました。「ついによみがえってきた」の部分は「芽吹く、花咲く」とも訳せて、希望が見える感じがします。

 自分たちの問題ばかりを見ていた不信仰の状態から解放され、人の救いのためにこそ労していこうという思いが出てきたそれが経済的な宣教支援の形としても現れてきました。それゆえ、パウロは「主にあって大いに喜んでいます」と喜びを露わにしているのです。

 私は長年地区の中高生会JYLCの働きをさせていただいて来ました。中高生という多感な時期の子たちのためにスタッフや顧問の先生たちがどんな思いで関わっているのか。実体験の中で見て来ました。その働きにおける「大きな喜び」とは何でしょう?

それは中高生会の予算が増えることなんかではありません。いつも赤字を心配しながらでも、どうとでもなります。

そうではなく、そこにいる「中高生たちの成長」こそ喜びなのです。

イエス様を信じられない子が信じられた!
聖書の話を聞いても眠いだけだったのが、心に響いて本当に励まされるようになった!
卒業したら、中高生たちのために働く人になりたい!そう思えるになったとの声を聞いた。
自分の事でいっぱいだった子が、神様の愛の中で成長し「自分の神様のため、誰かのために何かをしていきたい!」そう思えるようになった姿。

それら姿を見て、ああ本当に良かったなと主にあって大いに喜んでいるのです
これこそ、主にある喜びなのです。

 神様が人を造り変えておられる。新しくしてくださる。利益を得たから、得をしたからではないということです。パウロも11節でこう言っています。

11節 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 

 貧しかったから、あなたがたの支援がもらえるようになって喜んでいるのではないですよ!!私はありとあらゆる境遇を経験しており、貧しくても喜んでやれる道をよく知っているのです!だから、支援が復活したからではないのです。彼はそう伝えたいのです。

じゃあ、彼が喜んでいる理由は何でしょう?

それは、ピリピの人たちがキリストにあって造りかえられている姿を見て、彼らが神の恵みを味わえるようになっているから喜んでいるのです。

彼らが自分のためだけに生きるむなしい歩みをやめて、神の永遠の働きに加わったからなのです

私たちは苦しくなると自分のことしか見えなくなります。
自分にしか関心を持てなくなります。
しかし、それは不幸への直行便です。 

子どもの頃、よく野球やサッカーをしていて転んでケガをしました。膝をすりむいて血が出て、見れば見るほどに痛い。ところがある時、学校で転んでケガして保健室に行ったのです。すると、他にもケガをして保健室に来た子がいました。その子は私よりも血だらけで、見るからに痛そうでした。うわ、痛そう。かわいそうに。そっちに気を取られていたら、自分が痛いことを忘れていました。その間痛みから解放されていたことに気づいたのです。

不思議ですよね。これ本当に不思議で、人間は自分の痛いところをずっと見つめていると本当に痛い。でも、周りに同じようにあるいはもっと苦しんで痛んでいる人がいて、その人のことを心配するとなぜか自分の痛みが和らぐです。
 
 神様は人をそのようにデザインされたのだと思います。

 自分の事ばかり考え、自分を心配してばかりだとかえって苦しくなる。でも、他の人を心配し他の人を思いやる時に、自身の苦しみが和らぐ。喜びもそうなのです。自分の成長って正直自分ではよく分からないものです。でも、他の人が見るとよく分かるのです。感動するのです。ということは、人は自分ばかりを見ていても喜べないのです。

隣人を愛し、その人のために本気で祈り、その人を愛するからこそ、その人が変えられていく姿に感動し嬉しくなるのです。そこに神の奇跡が起きているのをいつでも見られます。

 これこそ神様が教えてくださっている満たされる秘訣です!!

 パウロは12-13節でこう語ります。

12節 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13節 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。 

 ここにあるようにパウロは波乱万丈の歩みをして来ました。しかし、どんな境遇であろうともそれに対処して満たされ、感謝して喜べる秘訣を学んでいるというのです。それは13節にあるように、「私を強くしてくださる方」によってどんな状況でも対応できるからなのです。もちろん神様のことです。

 誤解してはいけないのは、主役は「私」ではないということです。私を強くしてくださる主なる神様に目を向けるから、どんな状況でも満ち足りるという意味なのです。私たちの周りにはあらゆる神様の奇跡が起こっているのです現にパウロの環境は少しも良くなっていません。パウロは依然として牢獄にいるのです。彼は牢屋の自由な生活の中で、先行きもどうなるのか見えない中でこの手紙を書いたのです。

 しかし、この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれるほどに「喜ぶ」ということばが頻繁に登場します。境遇が変わらないのに心から喜べたのは、他の人の中で起こっている神の霊的な働きを大いに発見したからです。ここに目を留める人は無限に喜ぶことができます!神様は毎日人に働かれ、霊的なみわざを際限なくなさっているからです!

少し先の17節でパウロはこう言います。私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。 

まさに、ここに関心があるならば、あらゆる境遇の中でも感動があり喜びがあり、満たされていきます。願い求めることは「あなたがたの霊的な幸せなのだ」と彼は言っているのです。

あなたがたの信仰が豊かにされ、心も魂も満たされて行くことだとここに生きるならば、いつも神様の奇跡を体験でき、大いに感動し、前進し続けている神の国を発見できます!!

 説教準備をしていると、満足というのはない事に気づきます。

 自分が満足する説教は一生できないと私は受け入れています。それでいいのです。
説教が満足のいくものである必要などない。そこは大事じゃない。

 ただ、この説教を通して、励まされた、新しく気づかされた、神様を少し知ることができましたという方が1人でも2人でも起こされるのならば、私は満足です。

なぜなら、人の心に届いたのなら、神様が働かれた証拠だからです。神様が神の国を今日も前進させておられるのだな知ると、感動し心満たされます。もっと言うならば、私の説教がきっかけでなくても、皆さんのうちに霊的変化が起こっているのならば、神様に造りかえられておられる姿があるのならば、それを喜びたいのです。

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