東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ネヘミヤ8章1-12節 「主を喜ぶことは力」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/09/30

ネヘミヤ8章1-12節 「主を喜ぶことは力」

*** 9/30(水)祈祷会 説教概略 ***

ネヘミヤ記はバビロニアに滅ぼされたエルサレムの再建、特にその城壁再建がテーマとなっています。しかし、そこにはもう一つ別のテーマがありまして信仰の建て直しというテーマもそこにはありました。

ボロボロになったエルサレムの姿は、イスラエルの人々の信仰の状態そのものと言っても良いほど密接な関係があったからです。 

しかし、そこからの再建を神様は導いておられたのです。
城壁が完成した後、人々は信仰の建て直しのために集まっていました。
第七の月の第一日。

それは聖なる日、ラッパの祭りとも言われる時ですが、聖書の朗読や説き明かしがなされていました。城壁再建のリーダー・ネヘミヤと祭司であり学者であるエズラ。この二人とレビ人たちが中心となって「聖書の朗読と解き明かしの集会」が開かれていたのです。

この日、人々は涙を流すと共に、大いに喜ぶ励ましの時となりました。
その様子をみことばから教えられ、私たちも励ましを受けたいと思います。 

1節 民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。  

人々は自分たちの町にいましたが、第七の月になると皆それぞれの町から一斉に水の門の広場に集まって来ました。自分からみことばを求めて集まっている自発的な姿に見えます。

しかも「夜明け」からでありました(3節参照)。イスラエルの民は、モーセの律法の書を持ってくるように学者エズラに願いました。民が一つになって神のみことばを求めた姿が印象的です。自ら求めて「ぜひ聖書を読んで聞かせて下さい」と求めたのです。

聖書は求める者には、いつでも開かれています。「求めなさい、そうすれば与えられます。」とイエス様が言われた通りです。求めるを神様は見ておられ、求める者に豊かにお与えになります。みことばが感動をもたらすのは、心から求める姿勢があり、そこに主が応えられたということです。

2節 そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、
3節 水の門の前の広場で夜明けから真昼まで男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。 

みことばを求めた民に、エズラは応え、朗読を始めました。「夜明けから真昼まで」という長時間に及びました。それだけ求めがあったのです。みことばは求めがある時には、本当に心に入ってきますよね。

 2節でも3節でも「男、女、および理解できる人たち」とあります。「男、女」というのは成人した男女を示します。それに加えてことばを聞いて理解できる人もすべてということになります。となると、どういう人たちでしょう?

当時の成人式は12~13歳(男子は13歳、女子は12歳)ぐらいです。
ということは、12~13歳よりも若い世代、つまり子どもたちも聞いてある程度ことばを理解できる子たちは集まったということです。少なからず聞いて理解する力の人たちも含むということです。

みことばがあらゆる世代に向かって語られ、求める人は誰でもそこに集えたという事ですよね。

このために造られた講壇にエズラが立ち、彼が聖書を開くと、みな一斉に立ち上がりました。さらに6節にはこうあります。 

6節 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。  

民が主を求めている姿がよく現れています。全員立ったかと思えば、エズラが主をほめたたえると、両手を挙げてアーメンと唱和し、顔を地に伏せて礼拝したのです。全身を使って主を礼拝している姿です。

夜明けから、早朝から準備をして町から移動してきて集まりました。
ただぼ~っと聴くのではなく、立ったり、ひれ伏したり、アーメンと唱和したり。
全身で礼拝している姿に気づきます。現代の私たちは便利になり、良い反面、楽をして礼拝する姿勢にも陥りがちです。心から全身全霊をもって主を礼拝したいものです。

アーメンとは「真実」(エメット)ということばから来ていまして、ことばと行いが一致する事を指しています。ですから、アーメンということばは心の底からの同意とその通りになるよう生きていきますという決心を表すことばです。  

主を賛美することばを聞いて、私も同じように主をほめたたえます!という同意と決意です。神様あなたこそ、私たちの主、私たちの神ですとの告白です。私たちは慣れて来ると、決まり文句のように「ア~メ~ン」と軽く言ってしまいがちです。しかし、祈りのことばに心から同意し、それを行いをもって現していきます!との告白が「アーメン」だと知る時、厳粛な瞬間なのだと気づかされます。  


さて、このような姿勢を持った人々には、みことばが心の深いところに入ってまいります。

語る側も7節にあるように、朗読だけで終わらず指導者たちがしっかり「解き明かし」をしていることがわかります。みことばが語られ、解き明かされ、その意味が明快にされたので民は読まれたことをことごとく理解しました。
8節にこうあります。 

8節 彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。 

もちろんこれは、頭だけで理解したという意味ではなく、本当にそうだなと納得し心に残ったということです。

その証拠に9節を見ると、彼らがみな泣いていることがわかります。 

9節 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。 

彼らがみことばを理解したとき、心が刺されて悲しみ涙したのです。 
感動して嬉し涙の時もありますが、自分の愚かさや罪深さに気づかされて涙することがあるのがみことばの力です。いずれにせよ、心の深いところたましいまでみことばが入って来る時、私たちは心がこのように動かされます。

彼らは先祖たちの罪によって、エルサレムが滅ぼされ国が崩壊した悲惨な現実を改めて受け止めることになりました。なんとなく伝え聞いてきた事が、聖書からはっきりとわかり、神の民としての罪の自覚とその結果としての国の滅亡とバビロン捕囚でした。しかし、ネヘミヤとエズラたちは「悲しんではならない。泣いてはならない。」と励ましています。

この悲しみ自体が悪かったわけではありません。むしろ、心刺されて罪を示されることは良いことです。ただ、人は自分たちの罪の現実だけを突き付けられれば、望みを失います。みことばが罪について明確に私たちに示す書であるにも関わらず、私たちを慰め励まし力づけるのはなぜか?

そこに「圧倒的な赦しがある」からなのです。  

「あなたは赦されない」と言って責め立てる行為の先には絶望しかないのです。
人をそのように追い込んではいけません。追い詰められた人は、普段では想像もつかない行動、たとえば自死や報復行為に出てしまうこともあります。

今のネット社会で誰かを袋叩きにする風潮というのは、まさに絶望しかもたらさないですよね。有名人にとって今はとても生きにくい時代になってしまいました。

律法の書を通して、自分たちの通って来た罪の現実を示され悲しみ涙した者たちをネヘミヤとエズラは励ましています。

10節  さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」  

罪の悲しみの中にある時こそ、私たちは主を見つめるべきです。

そこに愛が、そこに赦しが、そこに慰めがあります。

「イエス様は悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と言われました。

本当の自分を知ると、罪の現実が迫って来ます。
しかし、その中で本物の愛を知ると心から慰められます。
主を喜ぶことこそ、悲しみから喜びへと、嘆きから踊りへと変えられる最善の道なのです。

民はみなで、一緒になって食べ物を食べました。
食べ物を用意できなかった者たちには、用意のある者がご馳走を贈ってあげました。
そのようにして、誰も漏れることなく、みんなで主を喜びました。

12節では結論としてこう語られます。 

12節 こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。  

みことばをただ聞いて終わりではなく、その真意を理解した。神様のみこころを理解した。神様の愛を受け取った。そして主ご自身を喜んだ。それが私たちの力になるのです。  

皆さんに順番に証しをしていただいていますが、それが励まされる理由は、主なる神様を、イエス様を証ししているからです。そこにある十字架の愛、神様の恵み深い守り、やさしい神様のご配慮。

みことばから神様のお姿を知る者となりましょう。神様がともにおられることを喜びましょう。日曜日の礼拝でも学んだように、この主を喜び続ける歩みこそ、誰にも妨げられない。無限に与えられる喜びの力です。パウロがどんな境遇でも喜べた秘訣、力ある働きができた秘訣はまさにここにあります。私たちにも同じ主がおられるのです!

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