*** 10/4(日)礼拝説教概略 ***
当時のイスラエルの民も同様だったのです。
具体的な要素として、6節以降にいくつもの事が出て来ますので、少しずつ紹介します。
エジプトやカナンの地、あるいはその他でも異教徒の様々な罪深くあるいは恐ろしい風習があったことがわかります。最初に出て来るのは、近親相姦です。自分の親兄弟、子ども・孫、おじ・おば等の近親者と肉体関係を持ってはいけないという教えです。現代日本でも民法で禁じられているので、近親者との婚姻届は受理されませんし、倫理的に問題であることは常識ですよね。
ところが、古代エジプトでは近親婚が容認されていたり、あるいは勧められたりすることもあったそうです。しかし、科学は大抵の場合神の教えの後からようやく追いつきます。近現代になってようやく近親婚の遺伝的な危険性が科学的、生物学的に明確になってきたのではないでしょうか?近親者であるほどに様々な障害が出る確率や致死率が高くなるわけです。
当時の社会ではそんな研究成果すらありませんから、神様がこれを教えてくださることで守られて、イスラエルの民の人口は増加し、非常に豊かな繁栄を示しました。そして、それだけでなく力の上下関係の中で起こる性的暴力から守られるために、神様がこうした性を大切にする教えを明確にしておられたのです。
こうした神様の定めと掟があることで、安全な出産も多く、疫病などからも守られ、防犯効果もあって平安な歩みを与えられたと言えるでしょう。
21節 また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
続く22節、23節では、同性との肉体関係、また動物との性交渉をしてはならないという主の教えです。これは現実にそういう風習を持つ人々がいたということに他なりません。それらは、私たち人間をデザインされた神様が「忌み嫌う」行為であり、「道ならぬことである」と言われます。実に聖書の時代からこうした課題があったのだと分かります
特に現代社会で関心が高いのは「LGBTQ」についてでしょう。「LGBTQ」とは同性愛者(レズ、ゲイ)、両性愛者(バイセクシャル)、心と体の性が一致しない人(トランスジェンダー)、そして最後のQは自分の性が定まらない人(クエッショニング)です。
今、世界全体では寛容に受け入れましょうという流れが強くなっています。しかし、何に対しては寛容であるべきで、何に対してはNOと言わなければならないのかをきちんと区別することは大切です。
私たちはどんな人であろうともその人を愛する受容するという意味では大いに寛容でなければなりません。しかし、罪深い態度、行為に対してはそれは滅びに至る道だからいけないのですよ?悔い改めましょうと導く必要があります。
つまり、私たちは風潮や雰囲気に従うのではなく、人間にとって何が最善なのかをご存知の方、世界の造り主の教えに立ちたいのです。
神の教えの一番大切なものは、神を愛すること、そして隣人を愛することです。
ですから、彼らを心から愛するべきですし、彼らのために祈り続ける必要があります。どんな生まれであろうと、どんな罪人であろうと差別せず愛するべきです。
しかし、愛することはどんな悪い行為に対しても寛容であることではありません。罪を正当化し滅びに向かう歩みに対しては、愛するからこそ悪いことは悪いと伝えて、神のいのちの示して差し上げる必要があります。神様は動物と関係を持つことも、同性と関係を持つことも罪であり、異教の悪習慣であり、それを真似てはいけないと語っておられるからです。
それは先天的・後天的であるかは実はあまり問題ではありません。
例えば仮に・・・私の子が「ぼくは生まれつき暴力衝動が強いから(先天的だから)殴ってもいいよね?だってぼくの個性なんだもん」と言われて「ああしょうがないね、いいよ」とは決して言いません。仮に生まれつき、他の人より何倍も攻撃的な性格であっても、それを正しく管理し、罪を犯さず守られるよう教え、神様に祈っていくことでしょう。やってしまう事があっても、それでいいと流さず、悔い改めながらともに歩んでいくのではないでしょうか。それは先天的か後天的かという問題ではないのです。
最近、ある女性の証しを読みました。高校生時代にまさにLGBTQのただ中を歩んできた当事者です。そこから回復された証しです。世の中はLGBTQに寛容な風潮になっているが、当事者だった彼女から言わせれば「当事者の何を知って容認しているのか?」と問いたいとのことでした。多くの人が好感度を上げるためとか、バッシングされたくないために容認しているのでは?。あるいは政治家が票集めに利用することもあると。
彼女が言いたいことは、「不寛容な人間だと思われたくないので寛大な対応をしよう」というその大人の態度が、ますますLGBTQの人口を増加させ、そこで苦しむ若者を増やしてしまっていると言うことです。そこにある危険、問題など知らないで好奇心や刺激を求め、さみしさを紛らわすために流れていく若い子が多いそうです。
彼女はその世界では自分はかえって苦しむばかりで、心が満たされることはなかったと後悔しています。そして、何よりもそこで求めていたのは、本気で心配して受け入れてくれる本物の愛だったと。
当たり障りない寛容さはかえって、愛が伝わらなくなってしまいます。
私たちは保身のための寛容ではなく、本当の意味での人を思いやる寛容を持ちたいと思うのです。相手の幸せを真に願う主にある愛の対応をしていくべきだと教えられるのです。
私は結婚相手について「本当にこの人でいいのか?」と悩む人がいる時に、こう助言することにしています。あなたに遠慮なく本音を言ってくれるクリスチャンに聞いてみてくださいと。そこそこ距離を取って、あなたに都合のいいことしか言わない人では意味がない。結婚相手という人生の大切な選択だからこそ、本気であなたを心配し、遠慮なく本音で言ってくれる方に、この人をどう思うかと聞いてみたらいいと。ただ、その時に忖度するクリスチャンしか周囲に居ないという悲しい現実にならないようにと願います。
その点で言うならば、神様こそは人を恐れて保身に走る事が一切ないお方です。
だからこの方のことばは信頼に値するのです。
神様は今日の箇所で、繰り返しおっしゃっていることがあります。
2節、4節、5節で「わたしはあなたがたの神、主である。」と繰り返しています。
忘れてはいけない。あなたがたの「あるじ」、あなたがたを愛してやまない造り主は「神であるわたしである」。この教えは人からのものではなく、神である主からのものであると。人を愛するゆえに100%、人の幸せのための教えをくださる主です。それによってあなたがたは「生きる」と教えられているのです。
神様は人を生かしたいのです。生きていて欲しいのです。死んだような人生ではなく、せっかく与えたいのちをイキイキと喜んで生きて欲しいのです。私たちはこの主なる神様のお定めと掟に従い、生きる者となりましょう。また、それを知らない方々にこのいのちの教えをお伝えさせていただきましょう。