東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第Ⅱサムエル記14章1-24節「神からのものか、人からのものか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/10/07

第Ⅱサムエル記14章1-24節「神からのものか、人からのものか」

 *** 10/7(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記から教えられます。少しこれまでの「あらすじ」を振り返りましょう。13章でご紹介した相関図もご参照ください。 


ダビデの子どもたちの間に騒動が起こっていました。息子の一人のアムノンが腹違いの妹タマルを力づくで辱めてしまいました。それに激怒したのがタマルの実の兄アブサロムでした。しかし、ダビデはこの問題に何ら対処できず二人の間に仲裁に入ることもありませんでした。

やがて、アブサロムは最終的に妹を傷つけたアムノンを殺してしまいます。その結果、今度はアブサロムが人々から批判の目にさらされたことでしょう。彼は逃亡し、母の実家のあるゲシュルに3年間滞在しました。

ダビデはその間、アブサロムについて何も対応することができませんでした。 

殺人の罪の重さにアブサロムは苦しんでいたことと思います。ダビデが自分を絶対に赦さないのではないかとも思っていたでしょう。ですから、アブサロムはダビデから何かしら声をかけて欲しかったはずです。

「殺人の罪」の問題についてもそれをスルーではなく、何かしらダビデからのアクションを求めていたのではないでしょうか。愛すればこそ、注意や指導があってしかるべきであり、傷つきたくない向き合いたくないという保身からは、子どもは愛を感じることができません。アブサロムは心のどこかで本気で叱って欲しかったし、心配して欲しかったのであろうと思うのです。しかし、ダビデにはそれができませんでした。

 できなかった理由は色々考えられますが、一つは過去に自分も犯した罪だったからかも知れません。二人の息子の罪を諫められるほど自分は正しくない。「どの口が言うか?」と非難されそうです。しかし、それでも息子を愛して「悪いことは悪い」と伝え、悔い改めるよう導くことが主のみこころだったのではないでしょうか。

 自分も同じ罪の性質があったからこそ、その罪の重さと苦しみがよくよく分かるはずです。他人事としてではなく、むしろその痛みの経験者として寄り添い、正しい方向に導くことが可能なはずです。息子たちを愛をもって指導し、必要な罰を与えつつも、真の悔い改めには赦しがあることを伝えるべきでした。

 しかし、結果として関われなかったのです。人の弱さだと感じます。

さて、今日のみことばでは、ダビデの側近であるヨアブが間に入ってアブサロムを都に戻そうと画策しています。

14:2 ヨアブはテコアに人を遣わして、そこから知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、
14:3 王のもとに行き、王にこのように話してください。」ヨアブは彼女の口にことばを与えた。  

 知恵のある賢い女性を用いて、ひと芝居打とうと考えたわけです。「装い」、「喪に服している女のようになって」とあるように、ヨアブが女性に偽装をさせてダビデを説得しようと試みていることが分かります。作り話、ウソの話であります。

 つまりヨアブは彼女に台本を与え、演じさせたのです。
 彼女は王に話をします。彼女の二人の息子がケンカをしたが、誰でも仲裁してくれないので、ついに一人が兄弟を殺してしまった。その兄弟も赦されず殺されそうである。ダビデはそれを聞いて、兄弟殺しの息子をすぐ赦すよう命令を出すと言います。

 その発言を得ると、彼女は13節でこのようにダビデに迫ります。

14:13 女は言った。「あなた様はどうして、神の民に対してこのようなことを計られたのですか。王様は、先のようなことを語って、ご自分を咎ある者としておられます。王様は追放された者を戻しておられません。

 彼女が言いたいことはこうです。

「王様、あなたは他の人の息子には赦すよう判断されていますが、全く同じことがご自分の身に起こっているじゃないですか。なぜ、あなたはご自分のことについては、同じようにしないのですか?あなたも息子さんのアブサロムを呼び戻すべきではないですか。」

 実は、このようなやりとり・手法は、以前12章で預言者ナタンがダビデに罪を認めさせるために、あるたとえ話をした時と似ているように見えます。そっくりかも知れません。

 ただ、本質的に全く違う部分があるのです。

 何だと思いますか?

 人間から出ているか、神様から出ているかということです。

 預言者ナタンは神様から遣わされて、主のことばを伝えています12:1を参照いただくとわかるように、ナタンは神様から遣わされてダビデに語っているのです。この事実がまず最初に確認されています。
 
 さらに、12:7でも「はこう言われます」とナタンは宣言し、神様のおことばを伝えに来ているのだということが良く分かります。

 ですから、神のご栄光のため、神のみこころを求めてなされているのです。

しかし、今回、とても似ている流れなのですが、主ではなくヨアブがこれを指示していましたよね。3節にあったように、ヨアブが彼女の口にことばを与えているのです

本来は「主が彼女の口に」であって欲しい所です。しかし、そうではなくヨアブから出て、ヨアブに遣わされ、しかも「たとえ話」ではなく「作り話」であり、ダビデを騙すための手法になっています。ヨアブ自身は王の役に立ちたいとの思いがあったかも知れませんが、非常に人間的なやり方のように見えるのです。

もちろん、ところどころ、この女性の口から「神」とか「主」ということばが登場しているのですが、むしろ、主の名を利用して自分たちの計画を成り立たせようとしているようにさえ見えます(悪意ではないと思いますが)。

主から出ているのか、主を利用しているのか・・・ここには天と地ほどの差がありますよね。

 さて、この女性は指示された通りにダビデの問題を指摘します。

 ところが、ダビデはこれがヨアブの指図で「自分を動かすための策」であると気づきます。18節を読むと、ダビデが本当のことを言いなさいと問い詰めているのがわかりますね。この女性も王様に問い詰められれば、答えないわけにはいきませんでした。18-19節 

14:18 王は女に答えて言った。「私が尋ねることに、隠さずに答えなさい。」女は言った。「王様、どうぞお尋ねください。」 
14:19 王は言った。「これはすべて、ヨアブの指図によるのであろう。」女は答えて言った。「王様、あなたのたましいは生きておられます。王様が言われることから、だれも右にも左にもそれることはできません。確かに王様の家来ヨアブが私に命じ、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです。  

 やはりここでも、「ヨアブが私に命じ、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです」とあり、この女性の口にことばを授けたのは神様ではなく、あくまでも側近ヨアブであるとわかります。

 ただし、ダビデはそれを確認すると、ヨアブの求めを受け入れ、アブサロムを戻すようにしています。それはダビデ自身もまた、確かにアブサロムのことはどうにしかなければとは思っていたからでしょう。しかし同時に、ヨアブという非常に強気で扱いにくい人間の機嫌を損ねないようにとの配があった可能性も考えられます。

実に、この後のダビデの対応やアブサロムの心が閉ざされて行く様子を見ても、人から促されたものと主から導かれたものではやはり違いを生んでいるように思えるのです。

21-22節のやり取りにも、非常に人間的な要素を垣間見るのです。

14:21 王はヨアブに言った。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブサロムを連れ戻しなさい。」 
14:22 ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福のことばを述べて言った。「今日、このしもべがご好意を受けていることが分かりました。王様。王が、このしもべの願いを聞き入れてくださったのですから。」  

 ここにあるように、願いを聞き入れてもらえて、自分が王から好意を受けていると分かったと言います。認められ重宝されているのだとわかったということです。ヨアブの関心は、「神のみこころ」にではなく、「自分自身」に向けられているように思います。もし、主に伺っていたのならば、もう少し違った方法でダビデに伝えたのではないでしょうか。

 ここに人の弱さがありますね。ヨアブは残念ながら主のみこころを求めてではなかったし、ダビデ王を心から愛するためとも言えなかったでしょう。それよりも、自身の考えが受け入れてもらえるかどうかに関心がより強かったのではないでしょうか。

 主から出ているものなのか。人からのものなのか。この差が結果にも現れています。

14:24 王は言った。「あれは自分の家に行ってもらおう。私の顔を見ることはならぬ。」アブサロムは自分の家に行き、王の顔を見ることはなかった。

この後2年間、アブサロムはエルサレムに住んでいながら王の顔を見ることができません。さみしかったことと思います。真剣に叱ってもらった方が愛を受け取れたようにさえ思います。この問題の時、ダビデもヨアブもアブサロムも主を求められていないように見えます。

祈っていないということはないかも知れません。でも、それぞれが自分の感情や思惑に支配されているのです。主の知恵を求めていたならば、主のみこころを求めていたのならば、ダビデと息子はもう少しお互いに歩み寄り、向き合うことができたのではないでしょうか。

 私たちは自分の弱さを自覚し、自分から出すものではなく、主から上からいただくものに導かれて歩みましょう。

最後に、使徒5:38-39を参照して終わります。

5:38 そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。
5:39 しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。

 ガマリエルというパリサイ派の教師が、使徒たちを殺そうと怒りに燃えている議員らに語ったことばです。この意見のおかげで、使徒たちは難を逃されました。
 結果どうなったのかを私たちは良く知っています。使徒たちから世界の広まり、全世界にキリスト者が増えまくりました。人間から出ておらず、神から出たものゆえ、増え続け、全世界に広まり、聖書はギネス記録更新中の大ベストセラーとなっています。

 私たちはどこに立つべきでしょうか?


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