東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記19章1-8節「聖であるとは?PartⅠ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/10/19

レビ記19章1-8節「聖であるとは?PartⅠ」

 *** 10/18(日)礼拝 説教概略 ***

レビ記19章より 「聖であるとは?」

「聖さ、聖なること」。それは聖書における大切なテーマです。なぜ大切なのかと言いますと、聖書でこう語られているからです。

ヘブル人への手紙12:14です。
「聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」

 聖さがなければ、だれも主を見ることができませんと言われています。

 なぜ、聖さがなければ主を見ることができないのでしょうか。

それは私たちと神様との関係を遮ってしまう溝が「罪の汚れ」だからです。それによって主の御顔が私たちから隠されてしまうのです。ですから、聖なる神様との親しい交わりを回復するために、イエス・キリストが十字架にご自身をおささげくださったのです。この恵みによって罪からきよめられて、父なる神様との親しい交わりを回復させていただくのです。

しかし、聖なる者とされるのは一瞬で完成することではありません。信じた瞬間に聖なる者となり、罪がひとつもなくなるということではありません。それはイエス様を信じて御霊とみことばに生きる歩みの中で、少しずつ変えられて行くプロセスなのです

子どもたちが小さな赤ちゃんの頃から始まり、時間をかけて学び成長してようやく一人前の大人になるのと同じです。クリスチャンも信じたばかりの赤ちゃんクリスチャンから徐々に成長して、やがてキリストと同じ背丈まで成長させていただくことを目指しているのです。

そのためには「聖なる歩み」とはどのようなものなのか。みことばから教えられ、主の助けをいただきながらイエス様の姿へと近づかせていただきたく必要があります。今日のみことばは、聖であるとはどういうことなのか、具体的に語られています。ともに教えられて参りましょう。

 2節にこうあります。 

「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。 

 この2節こそレビ記の主題を宣言していることばです。「神であるわたしが聖であるのだから、神のパートナー(友)であるあなたがたも聖なる者であるように!」との神様の願いです。私たちも親友となる人と言うのは、価値観が近い人ではないでしょうか。自分は平和主義で暴力反対なのに、平和を壊す暴力的な人と大親友になるということは難しいことです。神様もご自身が聖なる方であり、ご自身が造られたひとりひとりが聖なる者となって、神の協力者としてふさわしい者であって欲しいと願っています。

聖なる神と語り合う者、聖なる神の友となれる存在。それが「神のかたち」としてデザインされた人間です。 それは他の動物には求められてさえおらず、人間だけの特権です。神とともに、神の協力者として一緒に歩んでいくことを神様は願ってくださり、「神のかたち」にデザインされたからです。

ですから、聖さへの憧れを本能的に持っています。汚れを見ると嫌悪感を覚えます。きれいになると安心し、心が穏やかになります。それは神のかたちに造られているからです。あるいは神様から「良心」をいただいており、悪に対して嫌悪を感じられます。正しい良いことや愛や真理に触れると感動し喜べます。神のかたちに造られた者だからこそ、聖さに憧れや安心を感じることができるのです。

 では、具体的に聖であるとはどういうことなのでしょうか。3節。

3節 それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 

 最初に登場する聖さとは両親を恐れること安息日を守ることです。安息日の教えはまだしも、なぜ両親の教えが最初に来ているのでしょうか。十戒では5番目の教えですし、聖さとの関係がわかりにくい気がします。

 両親を見ても一切聖さを感じない!と反論する方もあるかも知れません。うちの子たちも実にそう思っているかも知れません。安心してください。これは両親の中に聖さがあるから、両親を恐れよという事ではないのです。

 ただ、このように考えることができます。親は聖なる神様によって立てられた権威であり、親に従うことを通して、その背後におられる聖なる神様への従順につながるという考え方です。子は親への従順を通して神様への従順を学ぶのだということです。決してきよく立派であるとは言えない親であるとしても、聖なる神様が御心に従ってお立てくださった親であるというだけで、恐れ敬うべきだということです。その姿勢こそ愛の姿勢であり、神の前に喜ばれる聖なる姿勢であると言えるのです。

 実は「愛」と「聖であること」は相反するように見えて、同じ方向に向いているものなのだと知るということです。 そして十戒とは少し言い回しが違っていることにも注意が必要です。違いが2つあります。十戒では「父母」となっていて父親が先に登場しますが、ここでは母親が先に語られています。そして十戒では「敬え」ですが、ここでは「恐れよ」となっています。当時はまさに男性社会ですから、母親の方が軽んじられやすかったと言えるでしょう。神様は父親だけでなく、母親に対しても同じように恐れる姿勢でいなさい!軽んじてはいけないと教えておられるのです。それが聖さなのです。 

 そして口先だけで「敬う」軽いものではなく、「恐れる心」をもって従順に従うこと。これが神の願う聖なる姿勢であると言うことです。 確かに考えてみると、親を尊びその権威を恐れる姿勢を持たない子たちは、やはり道を外れ、聖なる歩みとは真反対の道に陥りやすいと言えますよね。私は親の言うことは一切聞かなかったので、聖なる立派な人になりましたなんて、聞いたことがないですよね。

 祈祷会でも少しお話したのですが、ストリートチルドレンの将来がどうなっているのかということです。大人になったらストリートアダルトになるのでしょうか?そうではないですね。その多くは定職に就けず、犯罪者や麻薬常習者、あるいはマフィアのような組織に入って行くと言われます。まさに親の権威に置かれることなく、愛も知らず恐れることも知らない子たち。

 ところが、ある地域でストリートチルドレンのほとんどの子がそうした犯罪や悪い道に行かずに済んだというケースがありました。それは、この子たちを愛し叱ってくれる母親のような存在があったからだそうです。その子たちはこの方をお母さんのように慕い、あるいはまさに尊敬と恐れの心を持って従いました。本気で親のようになって関わってくれる人がいたゆえに、子どもたちの将来が大きく変わるということです。

愛のある聖い場所を知ると、そこに「留まりたい」と人の本能がそう願うのではないでしょうか。両親を恐れてその指導に従うことは、聖さへの第一歩なのだとわかります。 


 もう一つの「安息日を守ること」はまさに聖さに直結します。私たちは主の日を「聖日」とも表現しますよね。「聖なる日」としてこれを守ります。1週間のうちで最も長く神様とともに過ごせるはずの日であり、その聖さに与る日だと言えます。

 ある人が礼拝している中で、自分の汚れを示されたと話してくれました。1週間を振り返ると毎日のお仕事の中で自分のどこに聖さがあるだろうかと示されたのです。仕事のプレッシャーに押しつぶされ、人間関係でぎくしゃくし怒りがこみ上げる日々。忙しさの中で目の前の事をこなすことしか考えられない。そんな毎日を過ごしてきている自分が、何気ない顔で神様を礼拝するために礼拝堂に座っている。そこで心探られ、こんなに汚れた自分で良いのかと示され、苦しみの内に涙したと話してくれました。

 それを伺いながら、私はそれで良いのではないかと感じ、そのようにお伝えしたかと思います。私たちの誰もが汚れの中に歩んでいるのです。涼しげな表情をしていようと、青筋を立ててもがいていようと、その心のうちには誰しも葛藤があります。同じように汚れがあるのです。

 善悪の狭間でいつも葛藤し悩みます。正しいことをしたいのに、かえってしたくない悪をしてしまう罪深い性質があります。でも、その汚れを意識させられたということは、聖なる主の前に出ることができたということではないでしょうか。聖なる神の前に立つからこそ、私たちは汚れに気づかされるからです。

 そして、それゆえにキリストの十字架の恵みが必要なのだと改めて気づかされます。汚れを意識させられる私たちだからこそ、主の十字架の血潮で洗いきよめていただける恵みの大きさに深い感謝が生まれます。

 有名な賛美「アメージング・グレイス」は、美しい曲として知られますが、ただ「驚くばかりの恵みだ!」と言っているのではないのです。その歌詞には自身の汚れの告白が含まれていますよね。聖歌の1番の歌詞では「この身の汚れを知れる我に」とあります。その汚れの部分は英語では「wretch」という単語です。意味は「人でなし、悪党」です。奴隷商人に身を落としていたジョン・ニュートンが、死の淵で神の助けを経験し、こんな悪党でさえも、神は見捨てなかった!と目が開かれたのです。


 そして、少し進み5節では、献げものをするときの姿勢について教えられています。

5節 あなたがたが交わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。 

 私たちは毎週神様に色々なものをお献げします。目に見える献金も献げますし、賛美の歌を唇の果実としてお献げします。祈りを献げ時間を献げ、奉仕をお献げします。こうして献げる時に最も大切な事は何でしょうか?

 実は神様の前に献げる時に問われることは、献げ物よりも、献げているその人自身です。どのような心で、どのような姿勢で献げているかが問われているのです。

 奉仕を献げることを考えてみても、聖なる奉仕とはその人自身がささげられている奉仕でではないでしょうか。

 ミスがなければ立派になしているようには見えます。でも、その人の日々の歩みはどうであるか?その心はどうなのか?ここにあるように「自分が受け入れられるように」ということを一番に覚える必要があります。ミスなくささげること以上に、その人自身が神の前に出て礼拝者となっていることがより大切なのです。

 歌詞を映し出す奉仕を例にとります。かつて私が経験したこととして、OHPの歌詞の操作の奉仕をしている時、つい奉仕そのものに心が奪われ、自分が歌うことを忘れていることがありました。賛美奉仕者でありながら、自分が賛美をささげていない。自分の心が神様に向いていないのです。それは主の前に受け入れられるささげ物でしょうか?

 その逆もあり、あまりにも熱心に賛美していたので歌詞を切り替えるのを忘れてしまったことがあります。おそらく心当たりの方もいらっしゃるでしょう。ミスのないことも大事ですが心から歌うことに夢中になり、神様に心を注ぎだしているがゆえにミスをしてしまったということもあるのです。

 私はそれを「何をやってるんだ?」と責める気にはなりません(もちろん、ぼっと別の事を考えていたなどは含まれません)。それぐらい心を注いでいるのですから。主も喜ばれると思います。

 ある人は賛美の奏楽の時に、感極まって涙が流れ楽譜が見えなくなってしまいました。完璧な奏楽には程遠いかも知れません。でも、神様の目にはどう映っているのでしょうか。主に受け入れられる聖なる奉仕なのではないでしょうか?

ホセア6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。 

  ご一緒に主のみ声に聞いて参りました。

 聖であるとは、実は漠然としたことではなく、神様のみこころに歩む具体的なことであると分かります。神のみこころに歩み、神と人とを愛し、神の栄光を現すことです。

 そしてこれはイエス・キリストのお姿そのものです。主イエス様の後に従い、主の聖なる姿へと日々造り変えられて参りましょう。

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