*** 10/18(日)礼拝 説教概略 ***
レビ記19章より 「聖であるとは?」
聖さがなければ、だれも主を見ることができませんと言われています。
なぜ、聖さがなければ主を見ることができないのでしょうか。
それは私たちと神様との関係を遮ってしまう溝が「罪の汚れ」だからです。それによって主の御顔が私たちから隠されてしまうのです。ですから、聖なる神様との親しい交わりを回復するために、イエス・キリストが十字架にご自身をおささげくださったのです。この恵みによって罪からきよめられて、父なる神様との親しい交わりを回復させていただくのです。
2節にこうあります。
2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。
この2節こそレビ記の主題を宣言していることばです。「神であるわたしが聖であるのだから、神のパートナー(友)であるあなたがたも聖なる者であるように!」との神様の願いです。私たちも親友となる人と言うのは、価値観が近い人ではないでしょうか。自分は平和主義で暴力反対なのに、平和を壊す暴力的な人と大親友になるということは難しいことです。神様もご自身が聖なる方であり、ご自身が造られたひとりひとりが聖なる者となって、神の協力者としてふさわしい者であって欲しいと願っています。
聖なる神と語り合う者、聖なる神の友となれる存在。それが「神のかたち」としてデザインされた人間です。 それは他の動物には求められてさえおらず、人間だけの特権です。神とともに、神の協力者として一緒に歩んでいくことを神様は願ってくださり、「神のかたち」にデザインされたからです。
ですから、聖さへの憧れを本能的に持っています。汚れを見ると嫌悪感を覚えます。きれいになると安心し、心が穏やかになります。それは神のかたちに造られているからです。あるいは神様から「良心」をいただいており、悪に対して嫌悪を感じられます。正しい良いことや愛や真理に触れると感動し喜べます。神のかたちに造られた者だからこそ、聖さに憧れや安心を感じることができるのです。
では、具体的に聖であるとはどういうことなのでしょうか。3節。
そして、それゆえにキリストの十字架の恵みが必要なのだと改めて気づかされます。汚れを意識させられる私たちだからこそ、主の十字架の血潮で洗いきよめていただける恵みの大きさに深い感謝が生まれます。
有名な賛美「アメージング・グレイス」は、美しい曲として知られますが、ただ「驚くばかりの恵みだ!」と言っているのではないのです。その歌詞には自身の汚れの告白が含まれていますよね。聖歌の1番の歌詞では「この身の汚れを知れる我に」とあります。その汚れの部分は英語では「wretch」という単語です。意味は「人でなし、悪党」です。奴隷商人に身を落としていたジョン・ニュートンが、死の淵で神の助けを経験し、こんな悪党でさえも、神は見捨てなかった!と目が開かれたのです。
そして、少し進み5節では、献げものをするときの姿勢について教えられています。
5節 あなたがたが交わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。
私たちは毎週神様に色々なものをお献げします。目に見える献金も献げますし、賛美の歌を唇の果実としてお献げします。祈りを献げ時間を献げ、奉仕をお献げします。こうして献げる時に最も大切な事は何でしょうか?
実は神様の前に献げる時に問われることは、献げ物よりも、献げているその人自身です。どのような心で、どのような姿勢で献げているかが問われているのです。
奉仕を献げることを考えてみても、聖なる奉仕とはその人自身がささげられている奉仕でではないでしょうか。
ミスがなければ立派になしているようには見えます。でも、その人の日々の歩みはどうであるか?その心はどうなのか?ここにあるように「自分が受け入れられるように」ということを一番に覚える必要があります。ミスなくささげること以上に、その人自身が神の前に出て礼拝者となっていることがより大切なのです。
歌詞を映し出す奉仕を例にとります。かつて私が経験したこととして、OHPの歌詞の操作の奉仕をしている時、つい奉仕そのものに心が奪われ、自分が歌うことを忘れていることがありました。賛美奉仕者でありながら、自分が賛美をささげていない。自分の心が神様に向いていないのです。それは主の前に受け入れられるささげ物でしょうか?
その逆もあり、あまりにも熱心に賛美していたので歌詞を切り替えるのを忘れてしまったことがあります。おそらく心当たりの方もいらっしゃるでしょう。ミスのないことも大事ですが心から歌うことに夢中になり、神様に心を注ぎだしているがゆえにミスをしてしまったということもあるのです。
私はそれを「何をやってるんだ?」と責める気にはなりません(もちろん、ぼっと別の事を考えていたなどは含まれません)。それぐらい心を注いでいるのですから。主も喜ばれると思います。
ある人は賛美の奏楽の時に、感極まって涙が流れ楽譜が見えなくなってしまいました。完璧な奏楽には程遠いかも知れません。でも、神様の目にはどう映っているのでしょうか。主に受け入れられる聖なる奉仕なのではないでしょうか?
ホセア6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。
ご一緒に主のみ声に聞いて参りました。
聖であるとは、実は漠然としたことではなく、神様のみこころに歩む具体的なことであると分かります。神のみこころに歩み、神と人とを愛し、神の栄光を現すことです。
そしてこれはイエス・キリストのお姿そのものです。主イエス様の後に従い、主の聖なる姿へと日々造り変えられて参りましょう。