東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 14章25-33節「存在がないもののようにされる痛み」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/10/14

Ⅱサムエル記 14章25-33節「存在がないもののようにされる痛み」

*** 10/14(水)祈祷会説教概略 *** 

Ⅱサムエル記 14章25-33節「存在がないもののようにされる痛み」

 人間関係において「存在をないもののように扱われる」、つまり無視されることほど苦しいことはありません。特に大切な方から無視をされることは本当にさみしく辛いことです。

 そして、どんなに良い物を持っていても、親の愛を受けられないでいる、感じられないでいる子どもは幸せとは言えません。ここに登場しているアブサロムはそういう痛みを通っていた人であると言えます。

25節 さて、イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。

 ここから分かるように、アブサロムはとても美しい容姿を持った人物でした。イケメンということばでは足りないほどであっただろうと思います。天国で会ってみたい人物の一人です。足の裏から頭の頂まで「非の打ちどころがなかった」という表現は驚くべきほめことばですよね。

 ダビデも美少年であったと記されていますが、これほどの表現で形容されているわけですから、ダビデ以上に整った容姿の持ち主だったのでしょう。27節では奥さんとお子さんの事が記されています。4人の子どもが与えられ、娘さんは、実の妹と同じ名前が名づけられ、彼女もまた美しい女性であったとあります。

 はたから見ると美男美女ぞろいの幸せそうな家族に見えたかもわかりません。

 ところが、そのような外から見える光景とは裏腹に、決して幸せであったとは言えない現実がありました。愛を求めながら愛を得られない人生は孤独であり、満たされないものではないでしょうか? 

 何よりも父・ダビデとの関係に彼は苦しみ続けました。特に男性はやはり父親に認められたいという願望があるように思います。もっと叱って欲しかったし、もっと気にかけて欲しかった。そんな印象を受けるのです。

 アブサロムは妹タマルを辱めた、異母兄弟アムノンを復讐心から殺害してしまったわけですが、その罪の重さを引きずりながら生きています。ダビデからの正式なさばきもなされず、逆に安否を尋ねられることもなく、ダビデも気にしていながらも何も行動できずにいたということでした。

しかし、ダビデの側近のヨアブが知恵を巡らせて、二人を近づけようとしたことが14章前半にありました。そこでアブサロムは3年ぶりにエルサレムの自分の家に戻って来ることができたのです。ただし、親子の関係は距離があるままでした。

28節をご覧ください。28 アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。 ここにあるように、2年間、父ダビデの顔を見ることができなかったのです。彼は王ダビデを慕っていました。会いたいと願いました。しかし会えないままで苦しかったのです。

そこで彼は考えました。私をエルサレムに戻すよう動いてくれたヨアブならば、何とか助けてくれるのではないか?ダビデに対して影響力がある人だから、きっと彼らならば!と。

そこで・・・29節です。

29節 アブサロムは、ヨアブを王のところに送ろうとして、ヨアブのもとに人を遣わしたが、彼は来ようとしなかった。アブサロムはもう一度、人を遣わしたが、ヨアブは来ようとしなかった。  

ヨアブのもとに人を派遣して、お願いしようと思ったのですが、ヨアブは一向に来ようとしません。頼み綱のはずのヨアブが全然相手にしてくれないのです。これにはガッカリしたことでしょう。このあたりからも、ヨアブの行動が、アブサロムやダビデのことを心配する思いやりから出たものではなかったことが見えてきます。

自分の利益のためにばかり動いているように見えるのです。ここにあるように、アブサロムは一度ならず、もう一度ヨアブに使者を送りましたが、やはりヨアブは無反応だったのです。まるで存在がないもののように扱われる。これほどさみしく、むなしいことはありませんよね。

こうやって見ていると、アブサロムはかわいそうだなと思うのです。王ダビデとも面会したいけれど出来ない。ようやく間に入ってくれたヨアブも、全然相手にしてくれない。仮にも彼は王子様ですが、このように存在を無視され軽んじられることは、とても傷ついたのではないでしょうか??

 アブサロムはついにキレてしまいます。何をしでかすのでしょうか?

30節・・・大麦畑に放火をしたのです。おそらく家などの建物に影響のないところでしょうけれど、それにしても大問題です。アブサロムは復讐で兄弟を殺してしまいましたし、こういう行動にも出ているので、やはり感情を抑えられない弱さがあったのかも知れません。それにしても、ヨアブの態度は彼をさらに傷つけるものでした。

 さすがのヨアブも、また火をつけられては困るとアブサロムのもとを訪れます。なぜ、火をつけたのかと。もちろんアブサロムはあなたを呼びに行かせたのに、あなたが無視したからだと答えます。それと同時に彼が王ダビデに言いたかったことが語られ、彼の本音が見えてきます。

32節を味わいましょう。

32節 アブサロムはヨアブに答えた。「ほら、私はあなたのところに人を遣わし、ここに来るように言ったではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでした』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」

 一体何のためにエルサレムに戻って来たのか。これなら母の実家であるゲシュルにいた方がマシだったと。なぜなら彼は王に会いたいのです。「今、私は王の顔を拝したい」これが本音でしょう。しかも、彼は「もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない」とまで言います。生かされるにしても、殺されるにしても、父ダビデと面会し、ダビデの考えを聞かせてもらい、ダビデの判断に従おうと言うのです。

 ここまでしてようやくアブサロムはダビデに謁見が叶いました。

33節です。ただ、ここに会話が一言も記されていないのです。この後アブサロムはダビデの敵になってしまいます。求める愛が与えられないさみしさは憎しみに発展することが少なからずあります。非常に残念なことですが、愛されることの大切さ、愛することの大切さに気付かされるのです。

 愛されない子、存在を軽んじられる子、向き合ってもらえない子はなんと心が飢え渇いて、叫ぶように愛を求めていることでしょうか?彼の行動が危うさを帯びている理由は、まさにこうした必要な愛を受け取れていないことに原因があったのではないでしょうか。

 

 自分の存在が空気のように感じられる。それは人が生きていく意義を失ってしまう危機的な状況でしょう。 


「あなたは間違ったことをした。その罪を償いなさい。」

 たとえ厳しくとも、そのように向き合って欲しかったわけです。同じエルサレムという物理的な近い距離に戻されたところで、心が遠く離れているのなら 何の意味もありません。かえってつらかったでしょう。

 私たちはこの親子の姿を見ながら、神様の深いご愛が与えられていることのありがたみを改めて覚えるのではないでしょうか?

 神様は無関心どころか、私たちの髪の毛の数までもご存知なほど、私たちにどこまでも関わって下さる方です。ヨナが神様の示す方向とは反対に逃亡した時でさえ、神様はどこまでもヨナに関わってくださり、彼を嵐の海、魚のお腹の中で取り扱い、宣教地へと導かれました。

 キリストは1匹の迷子の羊の話をし、神が99匹をおいてでもその1匹を探し求める。そんな追い求める深い愛を持っていることを説き明かされました。愛する友ためにいのちまでも捨てるキリストの愛。何があっても決して見捨てないと言われる愛。

 この愛を求めているアブサロムのような人がこの世界にはあふれているのではないでしょうか?

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