*** 10/21(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅱサムエル記 15章1-12節「アブサロムの謀反」
自分の思いを神とせず、神である方を神として恐れ従うこと。
ようやくダビデ王に謁見できたアブサロムでしたが、そこには期待していたような親子の心の交わりはありませんでした。一応の和解の形にはなったものの、おそらく親しく抱き合い語り合うこともできなかったのでしょう。それはアブサロムにとって、決定的にダビデとの距離を痛感させられる機会となってしまったことと思います。
同時に形の上では兄弟殺しの罪についても恩赦を受けて、ある意味「自由の身」となったと言えます。それゆえ彼は心底悔い改めて「もう二度とあのような過ちは犯すまい」と決意する機会を持てなかったのではないかと思うのです。
実にこのことが最も深刻な課題ではないでしょうか。
アブサロムの歪んだ承認欲求、ダビデへの反抗
その証拠に今日開いている15章では、アブサロムはダビデに対抗意識を強め、やりたい放題になっていることがわかります。彼は数年かけて民の心を自分になびかせていくのです。
1節 その後、アブサロムは自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れた。
1節 その後、アブサロムは自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れた。
おそらく彼は王位継承者としての立場を強くアピールし、自分を認めて欲したかったのでしょう。「自分のために」「自分の前を走る者」という表現が示すように、自己顕示のために戦車、馬、兵士を集めたことがわかります。
神様の前に悔い改め、神様から承認していただくという交わりを大事にすべきでした。
これはアブサロムがダビデ王に謁見した場面を思い出させます。14章33節です。一応形としては親子が和解のために再会した場面でしたが非常に形式的でした。
聖書がこのアブサロムの行為を決して良いものと描いていないことは、6節を読むとはっきりします。
王になる宣言を出したアブサロム
このような行為をし続け、4年の時が経過しました。おそらくこれを4年続けることで、多くの人がアブサロムを支持するようになっていたことでしょう。いよいよ整うと、彼は王の許可を得てヘブロンへと向かいます。
その理由は7-8節にあるように「主に立てた誓願を果たすために」でした。太字の「主(ヤハウェ)」が連呼され、いかにも信仰深い者のようなセリフです。神様に「エルサレムに戻れたら、お仕えします」との誓願を立てており、それがかなえられたので約束通り主にお仕えしに行きたいのだと言ったのです。
しかし、それが事実なら4年も待つ必要はなかったですし、ダビデの王位を奪うような行為のどこが、主にお仕えする姿勢なのでしょうか。明らかにウソでした。それでもすっかり騙され、ダビデは快く行かせます。
神を恐れて生きる
アブサロムの問題は彼が神の名を利用しているだけであって、神様に従っていないということです。そもそも彼は復讐心にかられ殺人の罪を犯し、自分の思いを遂げるためには、ヨアブの畑にも火をつけました。彼はそれらを悔い改めていないのです。
そして、この15章の行為もまた卑劣な方法です。
確かに彼は親の愛を十分に受け取れず、かわいそうな人でした。
それでも神様を自身の「霊の父」として求め、この方の愛の中に生きる道を選ぶことはいつでも出来ました。しかし、彼はそれをしませんでした。
結局は「自分の思いを自分の神とした」のです。
ダビデも彼に悔い改めを促すべきでした。王として親として。
そして主の道に歩むよう訓戒すべきでした。
それが息子を愛するということです。ダビデも感情面では息子を愛していました。彼が死んだ時に深く悲しんだことからも分かります。しかし、神の愛で息子を愛することができませんでした。
この家族の問題は「神を恐れない姿勢」にあります。
私たち自身も神を恐れて生きることを徹底しなければなりません。また、それを子どもたちに伝えていく使命を持っています。どんなに傷ついても自分の思いを神としてはなりません。神である方をのみ神として恐れて生きる者となりましょう。
「神を恐れることは知識の初め」と箴言のみことばにもあります。
私たちが子どもに知恵や知識を学ばせようと思う時、数え方や英会話も大事ですが、まず何よりもこの世界の造り主なる方を信じて恐れ敬いつつ生きていくことを教えなければなりません。
すばらしい賜物と神様への深い愛を持つダビデでしたが、それでも弱点があり、このような過ちの中を歩んでしまいます。それが人間なのです。
だからこそ、ひたすらに神様の一方的な選び、あわれみによってダビデは選ばれ用いられたと知るのです。
私たちにも主はそのようにしてくださっていますし、これからもそうしてくださいます。