東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記 15章1-12節「アブサロムの謀反」

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2020/10/21

Ⅱサムエル記 15章1-12節「アブサロムの謀反」

*** 10/21(水)祈祷会 説教概略 *** 

Ⅱサムエル記 15章1-12節「アブサロムの謀反」

 自分の思いを神とせず、神である方を神として恐れ従うこと。
ようやくダビデ王に謁見できたアブサロムでしたが、そこには期待していたような親子の心の交わりはありませんでした。一応の和解の形にはなったものの、おそらく親しく抱き合い語り合うこともできなかったのでしょう。それはアブサロムにとって、決定的にダビデとの距離を痛感させられる機会となってしまったことと思います。

同時に形の上では兄弟殺しの罪についても恩赦を受けて、ある意味「自由の身」となったと言えます。それゆえ彼は心底悔い改めて「もう二度とあのような過ちは犯すまい」と決意する機会を持てなかったのではないかと思うのです。
実にこのことが最も深刻な課題ではないでしょうか。


 アブサロムの歪んだ承認欲求、ダビデへの反抗

その証拠に今日開いている15章では、アブサロムはダビデに対抗意識を強め、やりたい放題になっていることがわかります。彼は数年かけて民の心を自分になびかせていくのです。

1節 その後、アブサロムは自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れた。  

おそらく彼は王位継承者としての立場を強くアピールし、自分を認めて欲したかったのでしょう。「自分のために」「自分の前を走る者」という表現が示すように、自己顕示のために戦車、馬、兵士を集めたことがわかります。

昨日ほっとカフェでちょうど「承認欲求」というテーマで学びましたが、まさにアブサロムこそは父親に承認されず、受け入れられず、歪んだ承認欲求の虜になっているように見える人物です。

神様の前に悔い改め、神様から承認していただくという交わりを大事にすべきでした。

必死に自分を強く美しく見せようとするその姿は、内情を知る私たちからすると、かえって痛々しくさえ見えます。彼ほど美しい人物はいなかったと評されるほど整ったルックスの持ち主です。飾り立てなくても本来は十分に人目を引いたことでしょう。

しかし、彼はなお自分を飾るために戦車や馬、自分の前を走る人々を集めて華やかさを演出しました。戦車や馬は、エルサレムの地形上全く適していないとある注解者は指摘します。つまりこの行為は、見せかけのもの、プレゼン、パフォーマンスだったというわけです。ただ、これらは多くの人に非常に印象的だったでしょうし、実際に見栄えもしたことでしょう。民の人気を得ることはできたと思われます。

さらに彼はより深刻な悪い道へと流れて行ってしまいます。4人の子がいる「いい大人」でありながら、その行動は悪いことをして親の気を引こうとする非行少年のようです。2節にあるように、彼はダビデ王に面会に来る人々に片端から声をかけました。

 そして3節にあるようにこんな事を言ってそそのかすのです。

3節 アブサロムは彼に、「聞きなさい。あなたの訴えは良いし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」と言っていた。 

 事実、彼はダビデ王が自分のことを十分に理解してくれなかったと感じたわけですから、そのことばには熱がこもったのではないでしょうか。本当は父ダビデと親しく歩みたいと願ったものの、そのの願いがかなわず、かえってダビデへの憎しみを増してしまったように見えます。

 続く4節でも彼は自分の思いを人々に伝え、「自分をこの国のさばき人」に立ててくれないだろうかと言います。そうしたら「みんなの思いを正しく受け止め、対処するのに」とまるで民の味方であるかのようにそそのかします。ダビデに対するアテつけでしょうか。

 アテつけという意味では、5節こそがそうかも知れません。 

5節 人が彼に近づいてひれ伏そうとすると、彼は手を伸ばし、その人を抱いて口づけしていた。 

 これはアブサロムがダビデ王に謁見した場面を思い出させます。14章33節です。一応形としては親子が和解のために再会した場面でしたが非常に形式的でした。

 しかし、アブサロムは人々がひれ伏そうとすると、自分から手を伸ばしてその人に近づいて行き、抱いて口づけをしています。おそらく、これこそが自分がしてもらいたかった行為なのだと思うのです。「愛のある王ならこうすべきだ」と自分がすることで訴えているようにも見えます。 

 この行為もまた人々にはきっとウケたでしょう。あの王子様は私がひれ伏そうとすると、自分から近づいて来てハグしてくださったのだ。なんと優しいお方だ!と評判になります。これらの行為が愛から出ていたのなら素晴らしいと思います。ところが、悲しいかな・・・、これは全部自分のためでした。

 これらの行動は背景を知る私たちからすれば明らかにダビデへの反発、反逆に見えます。

聖書がこのアブサロムの行為を決して良いものと描いていないことは、6節を読むとはっきりします。 

6節 アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ

 彼はイスラエル人の心を「盗んだ」と語られています。誰から盗んだのでしょうか?

 神が王として選び立てられたダビデから盗んだのです。それは「神から盗んだ」と言っても過言ではないでしょう。 

 彼は表面的な優しさや民の利益になる王子の姿を巧みに見せました。そうしたものに惑わされ、民の心はアブサロムになびいていきました。元々見栄えのいい王子ですから、人々の心を盗むのに適した才を持っていたと言えます。しかし、それらの彼に与えられた才能は、良いことのため、主の栄光のために用いるべきでした。


 王になる宣言を出したアブサロム

 このような行為をし続け、4年の時が経過しました。おそらくこれを4年続けることで、多くの人がアブサロムを支持するようになっていたことでしょう。いよいよ整うと、彼は王の許可を得てヘブロンへと向かいます。

 その理由は7-8節にあるように「主に立てた誓願を果たすために」でした。太字の「主(ヤハウェ)」が連呼され、いかにも信仰深い者のようなセリフです。神様に「エルサレムに戻れたら、お仕えします」との誓願を立てており、それがかなえられたので約束通り主にお仕えしに行きたいのだと言ったのです。
 しかし、それが事実なら4年も待つ必要はなかったですし、ダビデの王位を奪うような行為のどこが、主にお仕えする姿勢なのでしょうか。明らかにウソでした。それでもすっかり騙され、ダビデは快く行かせます

 そしてヘブロンでついにアブサロムは公の行動に出ます。

10節 アブサロムはイスラエルの全部族に、ひそかに人を遣わして言った。「角笛が鳴るのを聞いたら、『アブサロムがヘブロンで王になった』と言いなさい。」

 ヘブロンで勝手に王としての宣言をしてしまうわけです。しかも11節を読むと、驚くべきことが語られています。

11節 アブサロムとともに、二百人の人々がエルサレムを出て行った。その人たちは、ただ単に招かれて行った者たちで、何も知らなかった

 何も知らなかった人々。謀反など寝耳に水。いつの間にか自分たちも反逆する王子の側につけられている人々。アブサロムの策略です。

 12節でもダビデの助言者アヒトフェルまでもがアブサロムの味方につけられています。多くの者を仲間に引き込んでいることがわかります。何もかもをダビデから奪い取ってしまおうという行為に見えます。

 自分のために人々に親切にし、ダビデ王にはウソを言ってヘブロンに行き、人々を騙して味方に付けて即位する。「イスラエルの人々の心を盗んだ」と語られているように、どれも神の前に正しくない方法によるものでした。彼の王権は確立されません。



 神を恐れて生きる

  私たちはここから何を語られているのでしょうか。

 アブサロムの問題は彼が神の名を利用しているだけであって、神様に従っていないということです。そもそも彼は復讐心にかられ殺人の罪を犯し、自分の思いを遂げるためには、ヨアブの畑にも火をつけました。彼はそれらを悔い改めていないのです。

 そして、この15章の行為もまた卑劣な方法です。

 確かに彼は親の愛を十分に受け取れず、かわいそうな人でした。

 それでも神様を自身の「霊の父」として求め、この方の愛の中に生きる道を選ぶことはいつでも出来ました。しかし、彼はそれをしませんでした。

 結局は「自分の思いを自分の神とした」のです。

 ダビデも彼に悔い改めを促すべきでした。王として親として。
 そして主の道に歩むよう訓戒すべきでした。

 それが息子を愛するということです。ダビデも感情面では息子を愛していました。彼が死んだ時に深く悲しんだことからも分かります。しかし、神の愛で息子を愛することができませんでした。

 この家族の問題は「神を恐れない姿勢」にあります。

 私たち自身も神を恐れて生きることを徹底しなければなりません。また、それを子どもたちに伝えていく使命を持っています。どんなに傷ついても自分の思いを神としてはなりません。神である方をのみ神として恐れて生きる者となりましょう。

「神を恐れることは知識の初め」と箴言のみことばにもあります。
 私たちが子どもに知恵や知識を学ばせようと思う時、数え方や英会話も大事ですが、まず何よりもこの世界の造り主なる方を信じて恐れ敬いつつ生きていくことを教えなければなりません。

 

 同時に、ダビデの弱さをここで私たちは学んでいます。

 すばらしい賜物と神様への深い愛を持つダビデでしたが、それでも弱点があり、このような過ちの中を歩んでしまいます。それが人間なのです。

 だからこそ、ひたすらに神様の一方的な選び、あわれみによってダビデは選ばれ用いられたと知るのです。
 私たちにも主はそのようにしてくださっていますし、これからもそうしてくださいます。

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