東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ20章45-21章4節 「見える栄、見えない栄」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/10/26

ルカ20章45-21章4節 「見える栄、見えない栄」

*** 10/25(日) 礼拝説教概略 *** 

VRゴーグルというのをご存知でしょうか。VRはバーチャルリアリティ(仮想現実空間)の略ですね。それを装着するとまるで3Dの別世界にいるかのように体験できるというものです。最近の技術はすごいものですね。

で、私はまた変なことを思いつきまして、神様目線で見られるというVRゴーグルがあったら面白いなと。名付けてGEG(Gods Eye Gogle)です。人間の目で見るのとは全く異なる神様目線での人間の世界の景色。それを私たちが見られるとしたら。もしかしたら、美しい人が美しく見えず、見栄えのしない方がものすごく美しく見えるかも知れません。心の思いが表面化して見えるといった感じでしょうか。それで見る時に、私たち自身の姿はどう見えるのでしょうか。人の前には美しく立派に飾ることができても、神様の目に美しく飾られているかは全く別ですよね。
 
 本日のみことば27節に「見栄を張る」ということばがあります。栄光を見せかける行為であって、人の目に見えるように「栄」を演出するということです。でもGEG(Gods Eye Gogle)をつければ、見破られてしまいますね。イエス様も山上の説教の中でこうおっしゃいました。「人に見せる目的で善行をしないようにせよ」、「自分の前でラッパを吹いてはいけません」、「右手がしていることを左手に知られないようにしなさい」。

「自分の栄光を飾って人に見せつけるような行為」をすべきではないとの教えです。ですから、むしろ人の目には見えないところでこそ、神様に喜ばれる良いわざに励みなさいと語られているのです。むなしく消え去るこの世の「見える栄」=見栄ではなく、天に備えられる神様のご栄光にあずかる者とされたいと思います。人の目に見えなくても神様の目に喜ばれる見えないところを美しく飾らせていただきたいと願います。今は愚かだと言われようとも、永遠に残る神の栄光をこそ求めて歩んで参りましょう。

 

 見える栄光を追い求めた人

 イエス様は多くの人が耳を傾けている中、弟子たちに向かって言われました。つまり弟子に語っていながら、周囲で聞いている者たち皆にも知って欲しいと語られたのです。

46節 「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席(じょうせき)、宴会の上座(かみざ)を好みます。

47節 また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」 

 律法学者たちについて問題が指摘されています。どのような問題が挙げられているでしょうか? 
 それは「自分の栄光を求めること」でした。

 まず「長い衣を着て歩き回ることが好き」とあります。服の好みの話ではないのです。「長い衣」というのは、当時の学者の制服のようなもので目印です。それを着ていれば立場が分かります。また、歩き回るのが好きというのも決して散歩が好きなわけではありません。健康のために多摩湖までウォーキングに行くようなものでもありません。

 ようは自分たちが偉い学者「ラビ」であるとすぐわかる格好で歩き回り、多くの人から「大先生!」と挨拶されたかったのです。そのために、わざわざ長服を着て目立つように歩き回っていたのです。彼らの目的は人からあがめられることでした。広場に行くのもそのためです。本来ならば、広場に行く理由は、一人でも多くの方に救いの知らせを伝えるため、聖書を教えるためであって欲しいのです。

 でも、彼らの行動はすべて自分たちの誉れのためでありました。
 彼らが探していたのは「救いを求める人」ではなく、「自分をほめたたえてくれる人」でありました。

 さらに続く47節では、弱者を踏み台にしている問題が指摘されます。「やもめの家を食い尽くしている」と語られています。やもめというのは、夫を亡くした独身女性のことです。その立場は非常に弱いものでした。特にご主人を失い気が弱くなり、不安の中にあると誰かにすがりたくなるというのもありますよね。そのような弱っている人に近づき、助けるふりをして搾取するという問題です。弱さに寄り添うふりをして財産を搾取していましたし、気に入る女性がいると妾にする律法学者たちも少なからずいたと言われています。そうでありながら、人に見えるところでは見栄を張って長々とお祈りをして、高名な先生だとほめたたえられ、多くの献金支援を取り付けます。会堂でもどこでも上席、上座に座り挨拶され、それを心地よいと感じるのです。このような人々の深刻な問題を指摘して、イエス様は「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」とおっしゃいました。誰もが権力におもねり、思っていても口にできない真実を主イエス様だけは恐れることなく口にされたのです。まさにGEGには、彼らはどのように見えるのでしょう?

 私たちも他人事としてではありません。見栄を張ってしまう弱さ、自分をあがめて欲しいという誘惑、またそれがないと機嫌を損ねる姿。私たちの内にないでしょうか?

 未だに覚えているのですが、神学校で大変お世話になった先生が、ある日のチャペルこのようなことを語られました。その先生はそれこそ高名な先生でいらっしゃいました。同時に、少なくとも私の目には非常に柔和で謙遜な方に映っておりました。けれども、そこで話されたことは「神様のため」と思って長年奉仕をしてきたけれども、振り返ってよく考えてみると、どこかに自分の栄光のためにしてしまった部分も多分にあったのではないかと改めて問われているということでした。あれほどの先生でも、そういう面があるのかと襟を正される思いがしました。でも、それを神様から示されて受け止め、学生に分かち合ってくださる姿勢に、ありがたいなと思わされたものです。頭ではわかっていても、人からの栄光を求めて、神様の代わりに自分に人々を引き付けてしまう誘惑が私たちにはいつでもあるのだと思わされます。

 

 人の目には見えない栄光に満ちた人

 興味深いことに、この話のすぐ後に貧しいやもめの献金の話が続きます。神様の摂理であると言えます。見栄を張ってばかりの律法学者たちとは対照的な姿があります。

21:1-4
1節 イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。
2節 そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、
3節 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。 
4節 あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

 レプタ銅貨とは当時存在していたコインの中でも最も少額のコインでした。1レプタを現在の日本円に換算すると約78円相当です。2枚で150円程度。見えるところで判断するならば、「あの女は随分ケチだな!」「信仰はどうした?」等と考える人もいたことでしょう

 しかし、神様の目には(それこそ神様目線ゴーグルで見るならば)、彼女は貧しい中から「生きる手立てのすべてをささげた」とすばらしい信仰を持っている姿が見えてきます。

 イエス様は人の目には見えないところを見ておられました。そのことに慰められますね。私たちの深いところまで見ていてくださいます。

 皆さんもこの人の立場ならと考えてみてください。
 読むだけなら「ああ、献金って金額じゃないんだね」とか、「へぇ、このやもめさんすごいね」で終わりかも知れません。でも、彼女は実在した人であり、小説や映画の中の登場人物ではないのです。
 
 明日からどうするのでしょうか?
 いや、今日食べるものさえどうするのでしょう?

 キレイごとではありませんよね。私たちと同じように悩み苦しみ葛藤したことでしょう。この2レプタを取っておけば、パンがいくつ買えるだろう。あと何日生きながらえることができるだろう。そんなことを考えたかも知れません。

「わずかしか持っていないから手放しやすかったのでは?」と指摘する人がいるかも知れません。でも、わずかしか持っていないからこそ、それを掴んで離せなくなるのものではないでしょうか。

 ハドソン・テーラーという中国奥地へ宣教に行った宣教師がいます。この方の本を読むと、自分の信仰のぬるさが恥ずかしくなるほどです。でも、その信仰に厚いハドソン・テーラーでさえ、貧しかった時にポケットに入っている小銭をささげるのに葛藤した事を告白しています。病人を抱えて、ろくに食事も出来ていない貧しい家族を見舞った時のことです。

 お祈りをした後、彼はとても悩みました。日本円で例えるなら、ポケットには残り500円玉しかない(実話では半クラウン銀貨1枚=2シリング6ペンス相当)。

 500円玉が100円×5枚なら、喜んで200円か300円ぐらいは差し上げたのに。でも500円硬貨1枚なので、それを差し出すと自分の残り生活費が0円になってしまう。まだ給金もいつもらえるか定かではない。ゆえに500円を手放す勇気がない。なにせ、これが残りの生活費なのだから。

 そういう状況です。彼が言うには、自分の信仰は「残り500円玉+神様」なら大丈夫だと思えるのに、全部を差し上げて「0+神様で大丈夫」という信仰になることは容易ではなったと言います。

 それでも悩み抜いたあげく500円を彼らに渡し、神様に祈っておゆだねしたのです。するとどなたか分からない方から献金があり、あるいは未払いだった給金が入って主に感謝したという実話です。 

 このやめもにとっても、2レプタは自分の命綱のようにも思えたでしょう。でも、それをささげたのは、神様が私を養い生かしてくださるという信仰に立ったからです。

 生かすも殺すも神様のお決めになることとゆだねたのです。悩み葛藤し祈りに祈ったすえにそうしたのではないでしょうか?

 イエス様はささげれられたレプタ銅貨ではなく、その背後にあるこのやもめの思いや葛藤、切り詰めすぎな程の生活のすべてまで知った上でこう言われたのです。 

3節「この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。」と。

 この女性の外見、見えるところは貧しく乏しく見栄えもしないことでしょう。でも、神様の目にこの女性ほど美しく力強く、輝く信仰者はそうは見つけられなかったことでしょう。それは先ほどの律法学者やあり余る中からささげて、偉そうにしている富豪とはまるで対照的です。私たちはどこを向いているのかと問われます。人の方を向いてばかりの律法学者たちと、ただ神様の前にまっすぐにささげているやもめが対比されています。

 神様の目に美しく栄に満ちた人とは誰でしょうか。





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