東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書20章41-44節「われらの主キリスト」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/10/12

ルカの福音書20章41-44節「われらの主キリスト」

 *** 10/11(日)礼拝説教概略 ***

 大学時代にイエス様を信じ受け入れるお祈りをした時に、教えられるままにこのように祈りました。「イエス様、私の罪のために十字架で死んでくださり感謝します。今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の人生を導いてください。」 
 おおむねこのようなお祈りだったと思います。

 特に重要なのは、イエス様を「罪からの救い主」つまり「キリスト」であると信じること。そして、もう一つは、私の人生を導く「主」であると告白することです。

 多くのクリスチャンが、イエス様を「罪や滅びからの救い主である」と信じています。でも、もう一つの「私の主」と信じることについては、ちょっと意識が弱いかなという印象があります。「私の主、我らの主」であるとは、私の生涯の「あるじ」であると受け入れ、絶えずイエス様に導かれ、イエス様とともに生きることです。

 そして、この方を愛することです。皆さんはいかがでしょうか?
 イエス・キリストは「あなたの主」となっていますか? 私たちを救ってくださったキリストは「我らの主」でもあるということをご一緒に教えられて参りたいと思います。

 

 今日の話はイエス様の問いかけから始まります。

41節 すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。 

 どうして人々はキリストを「ダビデの子」と呼ぶのですかと問われました。それは、「キリストはどういう存在か?」と問いかけると、多くの人がダビデ王の子孫という意味で「ダビデの子」だと答えたからです。

 しかし、イエス様が伝えたかったことは「ダビデの子」と言えるだけでは不十分ですよということです。確かに血筋においては、ダビデ王の家系に生まれたことは間違いありません。福音書もその系図を載せています。マタイの1章などはその例で、キリストがダビデの子孫と生まれたことがわかります。

 そして、それは預言通りであるという意味でも大事なことです。

 けれども、「ダビデの子」という呼び方はある一面に過ぎません。「ダビデの子」ということにばかり意識がいくと、場合によってはむしろ、キリストがダビデにとってどういう存在であったのかという大事な真理を見えなくしてしまう面もありました。

 なぜなら、やはり「ダビデの子孫」と呼ぶならば、先祖であるダビデ王の方が偉くてより尊ばれる可能性があるからです。このご先祖様がいらっしゃらなければ、生まれてさえいないのだからという考えもありますよね。

 しかし、当の本人であるダビデはそんなことを願っていないのです。
 そうではなく、救い主であるイエス様のことをもっと正しく理解して欲しいと思うことでしょう。

 そして、イエス様ご自身の意図をもう少し分かりやすく言い換えるならば、「ダビデの子とは別の呼び方ができますよね?」ってことです。実は「ダビデの子」よりも「ダビデの主」と呼ぶべきなのだと言うことです。

 

 そのためにイエス様は42-43節にあるように、詩篇を引用してダビデがこう言ってるでしょ?と解き明かします。 

42節 ダビデ自身が詩篇の中で、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
43節 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』  

『 』の中が詩篇110篇からの引用なので、正しく理解するために引用元の詩篇110篇1節を開いてみましょう。
 
 まず「ダビデによる賛歌」と表題があり、ダビデの作であることがわかります。
 そして、1節の最初に「は私の主に言われた。」とあります。ここで「誰が誰に言われたのか」を明確にすることで意味がわかるようになります。

 少なくとも新改訳聖書では、よく見ると最初の「」は太字になっています。これは誰でしょう? これは「ヤハウェ」という神のお名前が記されている部分です。ですので、最初の「」は父なる神様のことです

 じゃあ、父なる神様は誰に言ったのでしょうか?「私の主」に言われたとあります。「私」とはダビデです。では「ダビデの主」とは誰でしょう。この「主」は太字ではありません。こちらは神様のお名前ではなく、自分がお仕えするご主人、目上の方に使うことばです。最初の主と区別されていることが分かります(ヘブル語では別の語です)。

 これがダビデの子孫として来られるキリストのことなのです。

 そこで、次のように説き明かすことができます。

ダビデがこう言っている。
『父なる神様は、私の主であるキリストに言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』です。 

 特にイエス・キリストは十字架の死後、復活して天に戻り、父なる神の右の座に着かれたことを聖書は語っています。世の終わりの時に、すべての悪の滅びが預言されていますが、まさにその時がもう一度イエス様が右の座から立ち上がって、この地上に戻って来られる時なのです。 

ダビデにとってやがて生まれるキリストが、自分の子孫でありながら同時に、自分の救い主であり、自分の「ご主人」であると告白しているのです。

 これは、人間的な知識だけで言える告白ではありません。 未来の子孫を「自分の人生の主である」との告白は、神からの知恵、聖霊の助けによるのです。実際、他の福音書ではダビデは聖霊によってこの告白をしたのだと記しています。

 では、ルカの福音書に戻りましょう。20章44節です。イエス様はおっしゃいました。

44節 ですから、ダビデがキリストを主と呼んでいるのです。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」  

 多くの人がダビデの子孫であるという部分を強調して「ダビデの子」と呼びました。
 しかし当事者のダビデは「私の子」と呼ばずに「私の主」と呼んだ!
 あなたがたはこの事実をどう受け止めているのですか?その意味を分かっていますか?とイエス様は教えておられるのです。

 実は、人々が「ダビデの子」と好んで呼んでいたのには理由がありました。そこにはキリストに対する自分たちの願望が強く投影されていたのです。その願望とは、ダビデ王が軍事面において強い王様で、連戦連勝して領土をどんどん拡大した王様だったことと関係しています。彼らの多くは、ダビデ王のように強いリーダーシップと軍事力によって、今自分たちを支配しているローマ帝国を打ち破り、国を再建して欲しいと願っていたのです。

「ダビデの子」という呼び方には、実にそんな願望が込められていたのです。

 私たちも他人事ではないかも知れません。「こうであって欲しい」という救い主に対するイメージが誰にでもあり得ると思うのです。自分の願いを何でも叶えてくれる救い主であって欲しい。願いを叶えてくれるアラジンに登場する魔法のランプの精ジーニーのように。

 しかし、イエス・キリストは便利屋ではありません。私たちの望みを叶えるために利用すべきお方ではありません。

 むしろ、栄光ある神、私たちを造られ、私たちの王であり、私たちがすべてをささげてお仕えすべき主なる方なのです。そのような支配者なる神様が、私たちへの愛のゆえに、罪人を救い出すために「ダビデの子孫」となって人の血筋にお生まれ下さったのです。

 これは当たり前のことなどではなく、あり得ないほどの神様のあわれみ深さです。

 圧倒的な謙遜、へりくだりの結果なのです。何しろ神としての栄光を後にして人となられたのですから!それは本当に神様の側の尊い愛の犠牲です。

 その真実を抜きにして、ダビデ王の子孫よ!国を復興してくれ!と考えているとしたら、神様のお心を何もわかっていないことになります。

 そして、イエス様はこの誤解が人を本当の救いから遠ざけてしまっている事を深く悲しんでおられるのです。「真理はあなたがたを自由にします」と言われるように、真理を知ることなしには、私たちがあらゆる束縛から解放されることはないのです。


 イエス・キリストは私たち自身にも問いかけておられます。あなたにとって、キリストとは、どのような者だと言いますか?あなたにとってキリストとは何者ですか?と。 

 きっと、教会に集っている方々の多くは、正解を答えることはできるのだと思います。ペーパーテストにしたら、きっと皆さん良い答えを書かれるだろうとイメージできます。模範解答を知識で答えることができます。

 でもそれは、キリストは誰ですか?「ダビデの子です!」と答えるユダヤ人たちと同じようなものです。教えられてきたから答えられる。聖書に書いてあるからそう言える。

 でも、それはその人の告白とは限らないのです。

 正解を書けるということ=イエス様を愛していることにはならないですよね?

 その背後にある神様の尊い犠牲に本当に感謝しているのでしょうか。

 ダビデの子と呼べるようになってくださったことの重み、そこにあるキリストのへりくだりを知っているのでしょうか。

 むしろイエス・キリストより自分を愛しているのではと思わされます。おそらく牧師が誰よりも聖書にある答えを正解として答えることはできると思います。でも、「私の主」と心から告白することは、知識だけでできるものではありません。口先で言えたとしても、そのように生きていこうとしているのか、主を愛して歩んでいるのか・・・上辺だけになってしまい、主の語りかけに親しく聞いて歩んでいない現実を思わされるのです。

 ですから、イエス様をただ、私たちを罪とその縄目から救ってくださるお方というだけでなく、「私の主です」と人生を通して告白したいのです。

 それはキリストにあって生きて、キリストにあって死ぬことを喜びとするということです。

 教会に来ている時だけイエス様に従うのではなく、生活のすべてにおいてイエス様について行くことです。あなたこそ、私の人生における「あるじ」、私のすべてのすべて、私自身をささげてお従いしていくべき「我らの主キリストです」と告白させていただきましょう!


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