*** 10/11(日)礼拝説教概略 ***
大学時代にイエス様を信じ受け入れるお祈りをした時に、教えられるままにこのように祈りました。「イエス様、私の罪のために十字架で死んでくださり感謝します。今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の人生を導いてください。」
おおむねこのようなお祈りだったと思います。
特に重要なのは、イエス様を「罪からの救い主」つまり「キリスト」であると信じること。そして、もう一つは、私の人生を導く「主」であると告白することです。
多くのクリスチャンが、イエス様を「罪や滅びからの救い主である」と信じています。でも、もう一つの「私の主」と信じることについては、ちょっと意識が弱いかなという印象があります。「私の主、我らの主」であるとは、私の生涯の「あるじ」であると受け入れ、絶えずイエス様に導かれ、イエス様とともに生きることです。
そして、この方を愛することです。皆さんはいかがでしょうか?
イエス・キリストは「あなたの主」となっていますか? 私たちを救ってくださったキリストは「我らの主」でもあるということをご一緒に教えられて参りたいと思います。
しかし、当の本人であるダビデはそんなことを願っていないのです。
そうではなく、救い主であるイエス様のことをもっと正しく理解して欲しいと思うことでしょう。
そして、イエス様ご自身の意図をもう少し分かりやすく言い換えるならば、「ダビデの子とは別の呼び方ができますよね?」ってことです。実は「ダビデの子」よりも「ダビデの主」と呼ぶべきなのだと言うことです。
42節 ダビデ自身が詩篇の中で、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
43節 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
『 』の中が詩篇110篇からの引用なので、正しく理解するために引用元の詩篇110篇1節を開いてみましょう。
まず「ダビデによる賛歌」と表題があり、ダビデの作であることがわかります。
そして、1節の最初に「主は私の主に言われた。」とあります。ここで「誰が誰に言われたのか」を明確にすることで意味がわかるようになります。
少なくとも新改訳聖書では、よく見ると最初の「主」は太字になっています。これは誰でしょう? これは「ヤハウェ」という神のお名前が記されている部分です。ですので、最初の「主」は父なる神様のことです。
じゃあ、父なる神様は誰に言ったのでしょうか?「私の主」に言われたとあります。「私」とはダビデです。では「ダビデの主」とは誰でしょう。この「主」は太字ではありません。こちらは神様のお名前ではなく、自分がお仕えするご主人、目上の方に使うことばです。最初の主と区別されていることが分かります(ヘブル語では別の語です)。
これがダビデの子孫として来られるキリストのことなのです。
そこで、次のように説き明かすことができます。
ダビデがこう言っている。
『父なる神様は、私の主であるキリストに言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』です。
多くの人がダビデの子孫であるという部分を強調して「ダビデの子」と呼びました。
しかし当事者のダビデは「私の子」と呼ばずに「私の主」と呼んだ!
あなたがたはこの事実をどう受け止めているのですか?その意味を分かっていますか?とイエス様は教えておられるのです。
むしろイエス・キリストより自分を愛しているのではと思わされます。おそらく牧師が誰よりも聖書にある答えを正解として答えることはできると思います。でも、「私の主」と心から告白することは、知識だけでできるものではありません。口先で言えたとしても、そのように生きていこうとしているのか、主を愛して歩んでいるのか・・・上辺だけになってしまい、主の語りかけに親しく聞いて歩んでいない現実を思わされるのです。
それはキリストにあって生きて、キリストにあって死ぬことを喜びとするということです。
教会に来ている時だけイエス様に従うのではなく、生活のすべてにおいてイエス様について行くことです。あなたこそ、私の人生における「あるじ」、私のすべてのすべて、私自身をささげてお従いしていくべき「我らの主キリストです」と告白させていただきましょう!