今日からアドベント(待降節)です。クリスマスをじっくりと楽しみ味わい過ごしていく季節です。その中でも今日は特にクリスマスのうちにある「希望」について教えられます。
苦しい日々において、希望が確かに見えていれば頑張れますが、見えないなら頑張れません。もうすぐ孫に会える!愛する人が待っている!祈ってくれているから大丈夫!今度の礼拝は若者たちの賛美リードだ~楽しみだ!とか。そうした希望があるから苦しくても前に進めるものです。
そして、この世界で最も確かな希望はクリスマスに来られたイエス・キリストにあります!今日開いているみことばは、ご一緒にクリスマスに神様によって与えられた希望について、教えられて参りましょう。
9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
「闇が薄くなる、闇が減る」ではなく「闇がなくなる」とまで語られています。キリストを信じる者に無意味な苦しみなどないのです。苦しんだ闇の部分は、光によって喜びに変えられていくのです。
ここにあるゼブルンの地、ナフタリの地というのは、ガリラヤ湖の西側の地域です。この地域は何かと言うと、神様からいただいた「約束の地」の中で、最初にアッシリア帝国に占領されてしまった地域でした。屈辱を受けたと表現されていますが、屈辱は屈辱で終わらないのです。そこが回復され、栄誉を受ける時が必ず来るのだと「未来の希望」が断言されています。
続く2節では「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」と闇を照らす光の約束が繰り返されます。1-2節で続けて登場することば・・・「闇がなくなる」「栄光を受ける」「光を見る」などの表現は、実は原語ではみな「完了形」で語られています。それで2017年訳では言い切る形にされています。
以前は「光を見た」など思いっきり完了した訳を採用していたぐらいです。完了形というのはその名のごとく、本来は動作が完了している場合に使います。既に見た、既に受けたというように。ところが、ここは「これから起こる未来の話」をしているのです。未来なのに完了形??と思いますよね。これは聖書特有の使い方で、実現することが確実であることを意味します。
聖書の預言は必ず実現するので完了形なのです。そして事実、このイザヤ書が書かれてから700年ほど経って、救い主は来られ、まさに闇を照らす希望の光となってくださいました。
そして3節では「喜び」「楽しみ」とのことばが合計4度も登場しています。キリストにある救いとは、苦しい事が除かれていくのではなく、苦しみの経験を実りある良い物に変えてくれるものなのです。苦しかった経験をただ消極的に忘れさせるのではなく、あの苦しみをありがとう!と思えるように喜びに変えていただけるのです。
馴染みのあるボードゲームに「オセロ」というものがあります。白を光とし、黒を闇として例えて考えてみたいと思います。オセロでは黒を白で挟んでひっくり返すと全部白になってくれますよね。黒だった闇の部分が取り除かれるのではなく、それらの部分はひっくり返されて「白の陣地」とされますよね。
これと似ていまして、これまで痛み苦しんできた部分は、救い主イエス様の光に照らされ、消えてなくなるのではなく光の一部に加えられ、痛み苦しんだ経験さえ益とされ、喜びに変えられていくのです。嫌だと思っていた弱ささえ、この弱さがあるがゆえに、恵みをいただいたと感謝できるようにされます。
この希望がキリストにあるので、クリスチャンは強いのです。自分の過去の失敗を汚点として数えていた。しかし、キリストの光に照らされる時、そこが光の一部に変えられていき、あの失敗があったから自分は成長でき、神と出会うことができたとなります。
光や音を失うという重い障害を負ったヘレン・ケラーさんは、キリストの救いにあずかり後にこう言いました。「私は自分のハンディ・キャップを神様に感謝しています。このことによって私は自分自身を知る者となり、神の働きを見出すことができ、神と出会うことができたからです。」と。
苦しみや痛み、汚点が除かれるのではなく、光の側に買い戻していただける救いの恵みです。闇を光の側に贖っていただける。これがキリストにある希望です。
そこに神のさばきとしてアッシリアや近隣諸国の脅威が迫って来たのです。私たちもまた、自業自得で苦しみを招いていることはないでしょうか?
しばしば人は神にこう訴えるのではないでしょうか。「神よ。どうしてあなたは、こんなひどい目に遭わせるのですか?」と。まるですべての苦しみは神様のせいであるかのように。しかも普段信じて歩んでいないにも関わらず、急に苦しい時に神様を持ち出して。しかし、本当に神様のせいなのでしょうか。
この世界を管理してきたのは私たち人間ではないでしょうか。神様は人にこの世界の管理を、信頼してゆだねてくださったのです。それで人はこの世界を管理して来ました。でも、与えられている恵みに満足して感謝することよりも、欲を満たすために振舞ってきました。
森林を必要以上に伐採し、生物を乱獲し、大気を汚染し、互いに譲り合うのではなく奪い合ってダメージを負わせています。新しい領土や資源を得るために機関銃やミサイルや爆弾を打ち込み、一度土地を破壊してから回復させようとします。
こうした勝手な振る舞いの結果、砂漠化、温暖化、異常気象が起こり、災害が私たちを頻繁に襲うようになった面もないとは言えません。神様は人に罪を犯すように命じた事は一度もありません。それどころか、罪から離れ互いに親切にし愛し合い助け合いなさいと。恵みに感謝して歩むようにと教えておられます。実は悪魔でさえ誘惑はできても、罪を無理やり人に犯させる権限を持ち合わせていないのです。
それでも、人は言います。
「あなたがこんな環境を与えたから、私は罪を犯してしまうのです!」と。
けれども、聖書の時代においても、現代においても共通していることは、世界を暗闇にしてしまっている原因のほとんどは人の罪から来ているということではないでしょうか?
もちろん、罪とは関係ないことで苦しむことも確かにあるのです。それでも、苦しい状況の時にこそ、愛をもって助け合えるならば、まさに苦難さえ愛や絆を深める機会になり得るのです。神様の側からすると、言うことを聞かずに勝手に滅びに向かう者たちを本来救う義理はあるのでしょうか?本来はないはずです。
6節 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7節 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
ここにあるひとりのみどりご、ひとりの男の子が救い主イエス様です。処女マリアから赤ちゃんの姿で来られたキリストのことです。このキリストには主権があると語られます。「主権」とは物事の決定権です。イエス様にはこの世界における決定権があるということです。イエス様が望めば、望んだとおりにできる権限です。
私たちのすべての罪を赦し、闇を光で照らすことを願えばそれができる権限を持っておられるということです。
ダビデの王座に就くとあるように、まさに正しく平和な決定をなし、それを実行できるこの世界の「まことの王」として来られるのです。
このまことの王を受け入れ、心の王座にお迎えする時、私たちに真の平和が訪れます。
闇が光に照らされます。力ある方なので闇をすべて光の側に贖ってくださるのです。