*** 11/25(水)祈祷会 説教概略 ***
本日は16章15節からですが、直前の14節に一瞬触れておきたいと思います。
16章14節にこうあります。
14節 王も、王とともに行った兵もみな、疲れたのでそこで一息ついた。
都を追われたダビデ王とその配下の者たちは、厳しい状況でしたがそれでも主から離れず、神様の備えやご計画があることを信じて行動していました。シムイからの呪いのことばの数々や投石などがあっても、それに対して信仰をもって対処したところでした。
しかし、信仰があれば疲れないかと言うと、決してそうではありません。神様への信頼がどんなに厚くても、人である以上傷つきもすれば疲れもするのです。そういう時に「信仰があれば休み不要」といった極端な考えに支配されず、神の前に一息つくこともまたふさわしい事なのです。
私たちも走りっぱなしでは疲れます。単純に心や体を休める時が必要です。疲れを覚えたならば、一息つくということも頭の片隅に置いて歩みましょう。ただ、あくまでも神様の前に安らぐということが大切で、神様から離れて休もうとするとかえって霊的に疲弊してしまい、結果肉体的にも癒されません。
真実を見抜けないアブサロム
さて、15節から場面はエルサレムに変わります。
アブサロムとアヒトフェル、配下の者たちはエルサレムに入りました。
すると、ダビデの友フシャイがアブサロムのもとに来ました(むしろ待ち構えていた感じでしょうか)。このフシャイという人は15章で登場した人で、ダビデ王の親友でありダビデの味方でした。ダビデ王から頼まれて、反乱している息子のアブサロムの懐に飛び込むよう命じられていたのです。つまりスパイに近いですね。
特にアブサロムの参謀、軍師であるアヒトフェルの策をうまく妨げるために派遣されたのでした。それでフシャイはまずダビデ王の息子アブサロムに信頼される必要があり、16節でアブサロムの前でこう言いました「王様万歳。王様万歳。」
アヒトフェルの賢さ 神のことばのよう?
さて、ここから軍師アヒトフェルとスパイとして潜り込んだフシャイの知恵の戦いが繰り広げられます。21節でアヒトフェルの非常に冷徹でおぞましい策略が始まっていることが分かります。
人の知恵は神の知恵の前には弱く愚かである
少し先の17章14節を読みたいと思います。
「フシャイの助言はアヒトフェルよりも良い」とイスラエルの人々が言い始めた時、アヒトフェルは大いにプライドを傷つけられたことでしょう。これまで少なからず自信を持ってやってきたはずです。ダビデからも重宝され、幾度なくダビデらを窮地から救う知略であったことでしょう。しかし、その知恵が「良くない」と切り捨てられ、つい最近加わったばかりのフシャイの意見が採用されてしまったのですから、内心穏やかではなかったことでしょう。自分の立場を失ったことでしょう。
しかし、神様に遣わされ用いられている人と、神のことばの「ようであった」だけの人との間には天地ほどの差があったということです。神から出ていない知恵はどんなに立派そうに見えても、朽ちていくものです。
結局、アブサロムたちはフシャイの助言を採用していくことになったのです。この14節の最後に決定的なことばがあります! 主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。
神様がそうなさる時、どんなに優れた人間の知恵を集めて、神様の前にはチリに等しいものです。勝敗は最初から決まっています。私たちはこの世界で最高の知恵者である主を知り、この方の知恵の中に生かされて歩みましょう。
祈りのうちに主の声を聴いて、主の喜ばれる道を行きましょう。この世界でどんなに成功しているように見えても、まことのいのちを損じたら意味がありません。